永遠の夏
夏の終わりを感じられないまま、冬が来てしまった。
この家に越して来てから、もう三ヶ月が経った。
あたりが寒くなるのと同じくらい早く、ぼくの青春そのものだった四ツ谷の家の記憶は、だんだんと遠ざかっていく。
先月むかし住んでいた家の近くに用事があったので、すこし気になって寄り道して見たら、ぼくの部屋にはもう人が住んでいるようだった。
まだそんなに時間が経っていないから、家へと続く路地を歩いている時は、特に懐かしさも感慨もなかった。
買い物袋を提げてあの家に帰っていた時と同じ、何度も見慣れた日常の風景にしか見えなかったからだ。
野良猫の家族が住んでいた建物の隙間も、帰りがけに腰掛けて煙草を吸ったポールもそのままだった。
向かいの家が新しくなっているなど、すこしの変化はあったけれど。
でも、他人の傘が無造作に立てかけられたあの部屋の玄関は、すっかりよそよそしい感じがして、もうぼくを受け入れてはくれないようだった。
でもそれを見て、少し気持ちの整理がついたような気がした。
そう、昨日四ツ谷の交差点を歩いていたら、見覚えのある人影を見かけた。
その人影は緑色のコートを着て、友達と連れ立って歩いていた。
遠目で見てピンときたけど、やっぱり見知った人だった。
去年の冬のある夜、四ツ谷駅で見送ったあの子が、すぐ目の前で信号を待っている。
気まずいような、それでいて近寄りたいような気もしたけど、結局こちらの方が歩くのが早かったので、黙って真横を通り過ぎた。
ぼくは今、あの頃欲しがっていたチェスターコートを着ている。
向こうが気づいたかどうかは分からない。
ちらっと見た横顔は、相変わらず美しかった。
彼女は来年就職するだろうし、ぼくは院に進む。
この広い東京のどこかに散って、またすれ違うことがあっても、お互い気づかないかもしれない。
一言も交わさなかったけど、ぼくは彼女の側を通り過ぎる数秒間、あの家で過ごした一年分の記憶を思い出した。
遠ざかりながら、嬉しさと、懐かしさと、寂しさが静かにこみ上げてきた。
人は愛する時、相手の中に永遠なものを見る。
これは人を愛したこともない神父の教授が大学の講義で言っていたことだけれども、ファウスト博士が叫んだ「時間よ止まれ、そなたはあまりに美しい」という台詞は、そういうことを言おうとしていたんじゃないか。
ぼくはたしかに、彼女とあの家で過ごした時間の中で、永遠なものに触れたような気がする。
夏の盛りに、二人で新宿御苑の芝生に寝転んで、西瓜とビールを買って帰ったあの日の記憶は、「まだないもの」「今目の前にあるもの」「もはやないもの」といった精神の延長とは別のところで、たしかに今も存在しているのだ。
きっと今もこの世界のどこかで、ぼくと彼女は手を繋いで、芝生の上で笑いあっていることだろう。
そんなことを考えていたら、涙がこみ上げてきた。