なぜ私は街へ出るのか

実家に戻ってから一ヶ月が経過した。

 前の家を出る前は、とても悲しかった。

 でも、不思議と今は何も感じない。

 

 ここでの日常はというと、土日は働き、平日は大学の図書館に勉強しに行くついでに、渋谷や新宿に寄る生活が続いている。 

夜は誰かしらと飲んでいる。 

一時間かけて大学に行く気力がないときは、家から4駅先の街にあるドトールにこもって、卒論などをやっている。

 

僕はまがりなりにも大学院受験生なので、勉強や卒論を書き上げるためにも、大学に行って図書館にこもるのは必要なことだ。(自宅では作業できない人間なので)

 しかし、いつもやる気があるとは限らない。 

なんだか図書館にこもる気になれない時は、きまって新宿三丁目や歌舞伎町、道玄坂あたりをぶらついている。

 これは一人暮らしをしていた時と変わらない。あの頃も休日はきまって街に出ていた。

 

大抵行くところは決まっていて、新宿なら紀伊国屋で立ち読みし、「らんぶる」で買った本を読み、変に気分がもやもやするときは、夕暮れ時のキャッチの多い歌舞伎町をぶらつくことにしている。

渋谷なら東急百貨店の上にあるジュンク堂で立ち読みするか、「ライオン」でコーヒーを飲んでいる。

 金がない時はどこにも寄らず、ただ街中を徘徊している。

 

 ぼくは個人的に新宿や渋谷の猥雑とした感じが好きだ。

でも、かれこれ2〜3年も歩いていると、目につく情景は新鮮さを失ってくる。

 それに、外国煙草を買うくらいしか、降りる用事もない。 

それでも降りたくなってしまうのは、ずっと家にいるとおかしくなってしまいそうな気がするからだ。

 早い話が、刺激を求め、寂しさを紛らすために街をぶらついている。

 

 家にいると、永遠に続く日常の連関の中、たった一人で閉じ込められているような感覚が拭えない。

家には娯楽になるものがないわけではないが、ギターを弾いても映画を観ても、所詮は気晴らしに過ぎない、という感覚が拭えない。

まあ単なる気晴らしを超えて、すっかり没入できるような趣味を見つけるのは難しいだろう。

じっさい家では、語学の勉強や読書くらいしかすることがないわけだが、最近は好きで勉強しているはずの哲学ですら、単なる気晴らしに思えてきて、自分が何のために大学院に進もうとしているのか分からなくなってきた。

 

そんなわけで、家にいてもあまり刺激がないのだ。

もし、今後一生この家で過ごすことになるとしたら、僕は絶望のあまりおかしくなってしまうだろう。特に何かしら大きな志や生きがいでもないかぎり。

朝起きて、顔を洗って、服を着て、これといって何も見どころのないこの街を歩き、大してかわりばえのしない質素な食事を食べ、夜は一人でビールでも飲みながら、遅くまでネットを開く毎日がきっと繰り返されるのだ。

いわゆる「穢」の日常が延々と繰り返す退屈さから抜け出したい。エントロピーの増大に抗い続けるだけの、生物としての生から抜け出したい。何者にもなれずに死んでいくだけの運命から抜け出したい。一人でいる寂しさから抜け出したい。

 

僕が哲学に手を出したのは、言って見れば、繰り返される「ここ」での生から抜け出す突破口を求めていたのだろう。

あのころは街に出る元気も金もなかったから、観念の世界に逃げ道を求めていたのだ。

それが大学に入って自由を知ってからは、週に一度の酒盛り、女の子、旅行、そして大都会をぶらつくことなどに分散された。

 

街に出れば、五感でいっぺんに受け止めきれないほどの刺激を味わうことができるし、賑やかさが寂しさを紛らわしてくれる。

僕のような人間が都会をぶらつくことには、十分過ぎるほど理由がある。

都会の日常というのは、毎日が祝祭なのだから。