読書の記録

2018年があと数時間で終わる。

 

自分のことばかりしみじみ語っても仕方ないので、今年読んだ本のかんたんなまとめをしてみたいと思う。

 

詳しい批評はまた別の機会に回すとし、ここでは簡単に触れるにとどめる。

 

選りすぐりの三つを以下に挙げよう。

 

・リチャード=ドーキンス利己的な遺伝子

 

これは、四月に急性肝炎にかかっていた時のブログにも書いたが、生物学の古典とも言うべき本で、簡単に言えば、個体の利他的なふるまいは利己的な行動原理に基づくという内容である。我々の道徳観を根底からゆるがしかねない本だ。まだ通読はできていないが、ゲーム理論を生物の進化に持ち込んでいるところが興味深い。

たとえば、好戦的な個体と平和的な個体を比較し、単独であれば前者は後者より多くの利益を得るが、群で行動する場合、好戦的な個体ばかりでは結局全体の利益が減ってしまうということを言っており、実際の群では好戦的な個体と平和的な個体の比率がある割合で均衡を保っている、と述べている。具体的には、喧嘩を仕掛けて相手のエサを横取りする場合などを考えてみれば分かるだろう。

人間の群の中でも同じようなことがあてはまるのではないか、という記述が多く、興味深かった。人間関係において多少なりとも参考になるかもしれない。

 

ホメロスオデュッセイア

 

イーリアス』は2017年に読み切り、そのあと年をまたいで『オデュッセイア』に取り掛かった。前者が、「μῆνιν ἄειδε θεὰ Πηληϊάδεω Ἀχιλῆος(怒りを歌え、女神よ。ペレウスの子アキレウスの・・・。)」で始まるのに対し、後者は「Ἄνδρα μοι ἔννεπε, Μοῦσα, πολύτροπον, ὃς μάλα πολλὰ(あの男のことを わたしに 語ってください ムーサよ 数多くの苦難を経験した「あの男」を)」で始まっており、どちらもムーサの女神が語り手に憑依して物語るという形式を取っている。

 

両作品について語るべきことは多く、古典文献学の徒としてもいずれ詳しく扱いたいものだ。

 

オデュッセイア』のあらすじは、トロイア戦争の英雄、智謀にたけたオデュッセウスが、ふとしたことで海神ポセイダオンの怒りを買い、長い困難の歳月を経て故郷イタケに帰還するまでの物語である。

 

困難な状況に立ち向かう人間の普遍的心理が描かれている。

 

イーリアス』では、神々の気紛れとも言うべき偶然に翻弄され、身の破滅を知りながらも自らの運命を全うせんとする英雄たちの姿が描かれていた。

アキレウスヘクトルのような立派な男も、運命の手を逃れることはできない。

 

しかし『オデュッセイア』では、積極的に自らの手で運命を切り開こうとする人間の姿が主題であり、『イーリアス』と対象的である。

 

この転回については、ドッズの『ギリシア人と非理性』を読んでみれば分かるだろう。(これもまだ通読できていないが)

 

ミランクンデラ『存在の耐えられない軽さ』

 

20世紀を代表するチェコの作家、ミランクンデラの代表作である。僕はこれを、哲学科の学部時代の同期から勧められて手に取った。

 

舞台はプラハの春前後のチェコスロバキアドンファンな外科医のトマーシュが、出張先の田舎町でウエイターをしていた娘テレザと出会い、古くからの愛人サビナと三角関係になりながらも結婚生活を送る。

 

冒頭でニーチェ永劫回帰が引用されており、トマーシュとテレザの人生が偶然性の連続であって、だからこそ一回一回の決断が軽く、また重々しいのだとこの小説は説く。

 

将来有望だった優秀な外科医は、女に不自由することもなかったし、ソ連占領下のプラハから脱出したのち、チューリヒで何不自由ない生活を送るチャンスがあった。

 

しかし、彼は田舎娘との出会いによって、西側での生活も、外科医の職も失い、最後は農村のトラック運転手となって生涯を終える。

 

一見すれば悲劇の連続に見えるが、最後は牧歌的で幸福な日常の連続の中で死を迎えた。

 

 

 

他の本や映画、美術の感想も、そのうちブログに載せるつもりだ。