SF神学

 私が好きな映画の一つに、アンドレイ・タルコフスキーの「惑星ソラリス」がある。私の周囲の界隈でも、映画好きならたいてい知っている作品だ。

 

 最近、ハヤカワ文庫から出ているスタニスワフ・レムの原作を読み終えた。『ソラリス』(旧邦題『ソラリスの陽のもとに』1961年出版)は、ポーランドのSFの大家であるレムによって発表されて以来、西側でも大きな反響を受けた。

我が国でもいち早くロシア語から重訳されたそうだ。またタルコフスキー版のみならず、ハリウッドでも2002年に映画化されている。

 

この原作の主題は、未知なるものとの遭遇だ。

あらすじはこうである。ある遠い未来、ソラリスという惑星の観測ステーションに、心理学者である主人公のクリスが派遣されることになる。この惑星は発見されてから100年が経過しており、その特異性ゆえに多くの学者たちの注目を集めてきた。

ソラリスは、その全体が知性を持つ海に覆われているのだ。

二つの恒星を持つソラリスは、本来軌道が不安定であるはずなのに、知性を持つ海によってそれが一定に保たれている。

それだけではない。奇妙なことに、ソラリスの海は近づいてくるものを模倣する。

飛行士が海の表面に近づくと、宇宙船の形をそっくりそのまま真似た形のものが、時には明瞭に、時には半ば崩れながら、海の上に浮かび上がってくるのだ。この浮き上がってくるものは模倣体(ミモイド)と呼ばれ、その出現には一定のパターンがあると考えられているが、正確なことはわかっていない。

そして、他にも奇妙なものが、海の表面には多数出現する。

 

学者たちは何十年もかけて、この知性を持つ海とコンタクトを取ろうと試みてきた。

しかし、その試みは徒労のうちに終わった。

 

ときどき運良く海の思考の断片を拾うことができた。それはたしかに海が宇宙の数学的法則を理解していることを示唆するものだったが、海の思考から漏れ出たほんの僅かな一部分にすぎないのだ。

ソラリスの海は言ってみれば宇宙のヨガ行者で、孤独なモノローグを長い間続けているのかもしれない。

 

その次の瞬間には、海はすっかり人間たちへの関心を失い、果てしない沈黙が続くのである。

そしてソラリスの海の様子は刻一刻と変化し、その法則は掴み難かった。

 

かくて、多くの学者たちがソラリスの海を研究し、ソラリス学という学問が発展してきたが、謎が少しでも解明されることはなく、徒らにソラリスに関する本が書庫を埋め尽くすのみだった。

 

しかし、ソラリスの海が人間にまったく無関心だったかというと、そんなことはない。

ソラリスの海は、人間の姿形を認識していたかどうか定かではないが、人間の精神を直接覗き込んできた。

なんとソラリスの海は、人間の記憶にあるものを物質化させるのである。

 

主人公のクリス・ケルヴィンは、ソラリス・ステーションに到着するやいないなや、親友ギバリャンの自死を知るとともに、そこにいるはずのないものを目の当たりにする。

 

そして、何かにおびえきったような同僚スナウトと、部屋に篭ったまま出てこない、物理学者のサルトリウスの姿があった。

 

クリスは、荒れ果てたステーションと二人の様子を見て訝しむが、翌朝には全てを理解することになる。

枕元に、自殺した10年前の恋人ハリーが立っていたのだ。

 

スナウトとサルトリウスの元にも、彼らは来ていた。

「お客」と呼ばれる彼らは、眠っている間に、過去の抑圧していた記憶が物質化したものだ。

それはまるで生きている人間そのものだった。

 

クリスは、ハリーに負い目を感じていた。

当時19歳だった彼女は、クリスと口論したのち、毒薬を注射して自殺する。

ハリーはクリスと別れる前、自殺をほのめかしていたが、クリスはそんな勇気もないだろうとたかをくくり、ハリーを家に残して出て行ったのだ。

そして、目の前に現れたハリーの腕には、その時の注射痕がはっきり残っていた。

 

クリスはハリーと10年ぶりの会瀬を楽しむが、次第に罪悪感ゆえ彼女を疎ましく思うようになり、ロケットに乗せてソラリスの軌道に打ち上げてしまった。

 

しかし、翌朝にはまた何事もなかったかのようにハリーが現れるのだ。

クリスはやがて、ハリーを、いや正確に言えばニュートリノからできているその似姿を深く愛するようになる。

スナウトやサルトリウスは、それを嘲笑い咎めるものの、クリスはハリーと地球に帰って添い遂げる決心をする。しかしそれはできないことだとも分かっていた。

本来不安定で寿命の短いニュートリノは、ソラリスの磁場を離れれば崩壊してしまうのだ。

 

ソラリスの海が物質化させたものは、めいめいが負い目を感じている相手だった。

「お客」が現れたのは、寝ている間の脳波をX線に変換して海に照射するという、禁止されていた実験を行ってからだ。

親友ギバリャンは、良心の呵責ゆえ自殺してしまった。サルトリウスは一計を案じ、「お客」を消すために、今度は起きている間のクリスの脳波をX線に変換して海に照射することにした。

 

やがてハリーは、自らの存在がクリスを苦しめていることを悟ると、置き手紙を残して消えてしまった。

 

それから、ソラリスの海は二度と「お客」を送ってくることはなかった。

結局海とのコンタクトはそれきりになってしまった。クリス呆然としたままソラリスの海に降り立ち、未知なる海と対峙するのである。

原作はここで終わっている。

 

 

タルコフスキーの映画では、未知なるものとの遭遇という、レムの原作が最も中心に据えたテーマは扱われなかった。

それよりも、人間の良心をテーマにクリスの回心が描かれており、原作にはないクリスの家族まで登場し、最後はソラリスの島で父親と和解するという、聖書の放蕩息子をモティーフにしたシーンで終わっている。

 

これを見たレムは激怒し、また芸術至上主義のタルコフスキーも一歩も譲らず、「お前は馬鹿だ」というレムの捨て台詞残して、両者は喧嘩別れになってしまった。

 

ハリウッド版の方は、監督がレムの意図を読む力がなかったのか、あるいはハリウッド映画の例に漏れず大衆向けに書き換えたのか、ハリーとクリスの陳腐なラブストーリーにされてしまったようだ。

 

 

 

 

さて、私はこの原作を読んで、人間をはるかに超えた知性を持つ生命との邂逅から、神と対峙する人間のあり方を連想した。

 

ソラリス』の中盤から、ソラリスの海がいつまでも人間にとって未知である理由として、人間中心主義というキーワードが登場する。

われわれは、人間として生まれ持った特性として、あらゆる対象をそれが人間であるかのように表象してしまいがちである。

たとえば、古代ギリシアのクセノファネース(B.C.6)は、ホメーロスの擬人的神観をこう批判した。

 

    「しかし、かりに牛、馬、獅子などに、手によって描き作品をしあげる能力があるとすれば、馬は馬に似せて、牛は牛に似せて神々の姿を描くことだろう…」

 

われわれが神を人間として思い描くのは、われわれが人間に生まれたためである。だから、他の動物たちも神を持つとすれば、それらは自らと同じ姿に神を思い描くだろう、ということである。

 

ソラリス学者たちも、はじめはソラリスの海の変化を、人間がする行為に例えて解釈しようとしたことだろう。

しかしソラリスの海は、どうやら人間よりもはるかに高度な知性を持っているらしいということが薄々分かってくると、そのような解釈で海の反応を理解することは妥当でないと人間たちは気づきはじめる。

 ましてやソラリスの海は地球外の生命なのだから、地球の生物に通用するような見方は通じないだろう。そもそも生命と呼ぶべきものかも分からない。なにしろそれは、惑星全体を覆うゼリー状の物質なのだから…。

 

すると、沈黙を続けるソラリスの海に人間たちが見出すものは、海に投影された人間たち自身の内面だと言えるのではないだろうか。ソラリスの海は精神を映す鏡であり、言うなればきわめて卓越した精神分析者なのである。

 

 

 

我々が気付けば投げ込まれていたこの世界も、我々にとって依然として未知なるものであることに変わりはない。

時間と空間に始まりと終わりがあるのか、また世界は必然性が支配しているのか、人間に自由はあるのか、また神は存在するのか、といった疑問に、我々は答えるすべを持たない。

その上、われわれは不条理な運命のただ中にあって、濁流に浮かぶ木の葉のように翻弄され続けている。

数々の不幸に苛まれるヨブや、磔にされたイエスのように、神を、ないしは世界を前にして「なぜ、なぜ」と問い続ける時があるだろう。

 

ホメーロスの時代から、宗教や哲学は未知なるものへの解釈を与えてきたが、世界の理法や神という人知を超えたものに対して、それらはどれほど有効だったのだろうか。

例えば、我々は不運に見舞われるとき、そこに因果性というあくまで人間的な解釈を持ち込もうとすることがある。

こんな目にあったのは、私に落ち度があったためだ。私の罪過に対する応報なのだ、と。

 

しかし、我々が知っている通り、善き人、正しき人も不運に見舞われることがあるし、自分のうちにも何ら負い目が見当たらないこともある。そんなときのために、前世での業だとか、原罪だとかが発明されたのではないだろうか。

 

もう少し進んだ精神は、ふりかかる悪を、「理性の狡知」のように、世界全体の正義を実現するための代償として考えるのではないか。

広島と長崎に原爆が投下されたのは、ファシズムを終焉させるためのやむない犠牲であり、世界全体の自由の実現には、ボリシェビキに銃殺される無辜の人民や、ガス室で殺されるユダヤ人が必要だったのだ…というように。

 

しかしそんな理屈は、地下鉄にサリンを撒いたどこぞのカルトの教義と何が違うのだろうか。

 

 

 

さて、『ソラリス』の最後では、クリスは一切の解釈を放棄し、未知の海を呆然と眺める。人知を超えた海は、一切の人間中心主義的、地球中心主義的な解釈を拒絶し、得体の知れない存在であり続けるのだ。

この最後は、人間が置かれている状況を、一切の虚飾なしに、ありありと見せつける。クリスの態度は、どこかヨブを彷彿とさせるものがある。一切の救いも、世界を知る手がかりもなく、それでもクリスはグロテスクに変化するソラリスの海と対峙する。

 

ソラリスの海は、最後まで絶対的な他者でありつづけた。

 

この本は、言わば沈黙する神と世界を前にたたずむ人間に贈られた神学書なのである。