肝臓をやられた私は、人間がいかにして利他的になれるのか考えることにした。

もう明日から学校が始まる。忙しい研究の毎日が。

 

しかし、僕は家に籠ってベッドに寝そべるだけで、明日からの授業の準備をするわけでもなく、とにかく何一つ生産的なことをしていない。

 

それは昨日の朝のことだった。

早朝から枕元に置いたiPhoneが震えているのを、薄ぼんやりした意識で感じ取っていたが、ようやく体が動くようになって手に取ると、主治医から電話が入っていた。

「緊急入院です」

 

その一言で全てを察し、跳ね起きるなり大急ぎででかいトランクを引っ張り出した。

 

僕は入学式の前日まで京都旅行に行っていたのだが、帰った時から風邪で高熱が出たり下がったりを繰り返し、仕方なく地元の医者にかかって血液検査をしてもらうことになった。

 

その結果の紙を医者が突き出し、見ろと促すが当然分からない。GOT,GPT値が500を超えている。基準値の10倍だ。これはあなた、肝臓の細胞がすごい勢いで破壊されてる、ということですよ。

 

そのまま医師の紹介で大学病院に向かうこととなった。

 

そこの担当の医師はそこまで深刻には受け止めなかったらしく、経過観察でよいと判断され、幸か不幸か即日釈放となった。

 

はじめに診てもらった医者はそれを聞いて憤ったが、僕にどうこうできることではなく、まあ家で大人しくしていようということで、今こうして1日丸太のように過ごしている。

(詳しい説明は省くが、僕はいたって元気にしているし、よくある一過性の病気の可能性が高いので、読者諸氏の心配には及ばない。)

 

 

 

まあしかしここ数ヶ月の間、学科の仕事で毎日休みなく働きづめだった。

 

僕は常に動き回っていないと気が済まないたちだから、こんな機会でもなければゆっくり静養することなどない。本を読んだり考え事をしたりする時間が欲しかったのでちょうどよかった。

 

といっても、実際横になっていると本を読むのも大儀に感じ、ツイッターだの動画だのくだらぬ暇つぶしに興じている。

 

だが昨日は『イーリアス』と、ドーキンスのSelfish Geneを読んだ。

 

哲学書しか読んでいないと、専門に凝り固まって馬鹿になってしまいそうな焦りを覚える。

 

後者は最近文学も他の分野の本も読んでいないことに気がついて、休暇中に本屋で買ったものだ。

 

ドーキンスは自然科学の畑を超えて名が知られているし、私の指導教員が事あるごとに勧めてくるのでもっと早く読んでいてもおかしくはなかった。

 

僕は、自然の理を物質に即して説明するやりかたがあまり好きではない。

 

遺伝子にプログラミングされているから、という単純な根拠で利己主義を人間の本性だと決めつけたり、挙句の果てには(通俗的な意味での)社会ダーウィニズムを正当化するような議論—大抵低レベルなものだが—は、僕は納得できない。

 

現に人間の間には利他的行為が見られるわけだし、それを種全体の存続を達成するためとして説明しきるのはいささか無理がある。

 

僕はまだ通読したわけではないが、読んだ限りドーキンスは利他的行為も種の存続のために必要とされるものであり、遺伝の最小単位である遺伝子は本来利己的である、という路線を貫いているように見えた。

 

まだ前半部をざっくりとしか読んでいないので、間違っている可能性がなきにしもあらずだが、まあこんなところだ。

 

今まで我々が掲げてきた道徳観が一気に崩壊するような本である。出版当初、倫理学畑から相当な反発を受けたことは想像に難くない。

 

本に書かれている仮説は突拍子もないものもあるが、生物の生殖や遺伝を遺伝子の存続という観点から全て説明しようとするもので、僕も頷かされるところがあった。

 

 

 

しかし、そうなると我々はいかにして倫理を持てるのだろうか。種の保存のためではなければ、いかにして利他的になれるのだろうか。

 

無理はできないので一旦筆を置くが、この話題は僕が最近考えている重大なテーマなので、近々また取り上げて続きを書こうと思う。