煙草というファルマコン

むかし7号館の下に喫煙所があって、大抵そこに学科の先輩や同期がいた。研究室から近かったので、皆よく立ち寄ったものだ。思えば私の学生生活と煙草は切っても切り離せない。哲学書を紐解くときのお供は煙草だったし、パイプを教えてくれたのは学科の先輩だった。
一服するにしろ、茶をしばくにしろ、飲みに行くにしろ、人が集う輪の中心には、しばしば中毒性のある嗜好品がある。そして、われわれは普段そういったものの毒性に無頓着だ。試しに紅茶を長く口に含んでみてほしい。だんだんと舌が痺れてくるところから、カフェインが緩やかに神経に作用する毒だと分かるだろう。だが紅茶は気分を爽快にし、集中力を高めてくれる。アルコールもまた脳を麻痺させる毒だが、飲めば朗らかになり、それがもたらす陶酔は心の垣根を取り払う。
毒が時として益をもたらすことは、二千年以上前から知られていた。ギリシア語のファルマコン(pharmakon)という語は、毒と薬の両方を意味する。英語のpharmacyの語源だ。たとえばソクラテスは裁判で不当に告発され、死刑を宣告されるわけだが、刑に使われる毒人参の汁は、『パイドン』篇でファルマコンと呼ばれている。それは死をもたらす毒であるとともに、魂の牢獄(セーマ)である肉体(ソーマ)から彼の魂を解放する薬でもあるため、該当箇所は両義性をもって解釈されるのだ。
また薬も、副作用を全く伴わないものはないし、度を越せば身体を害す。そういえば煙草も何千年もの間、インディアンが薬として使ってきたそうだ。たしかにパイプをゆっくりと吹かせば沈鬱な気分がやわらぎ、思考はクリアになる。これを薬として使わない手はないだろう。彼らは儀式のたびにパイプを回して吸ったそうだが、思えば紫煙を薫せながらの社交には、喫煙所の外でのそれとは違った一体感があるものだ。
私は一服しながらつくづくと考える。煙草がもたらす享楽は、こういったファルマコンのもつ両義性に由来しているのだろうと。

 

(上智新聞寄稿)