パイプ呑みの男

時刻は9時を回った。

 

この時間に四ツ谷で開いているカフェは限られてくる。

 

夜遅くにカフェで作業したくなったときは、決まって少し歩いて、四谷三丁目のコーヒーチェーンに入る。

 

ひろびろとした喫煙席があって、コーヒーがとても安いのだ。

 

なにより23時までやっているのがありがたい。

 

 

 

まだ僕が四ツ谷に住んでいたころ、このカフェの喫煙席で奇妙な出会いがあった。

 

ぼくはパイプをふかしながら専攻の文献を読んでいると、隣の席にいた初老の男が火を貸してくれと言ってきた。

 

彼もパイプスモーカーだったのだ。

 

僕は同じパイプ吹きを偶然近所のカフェで見つけたものだから、少し嬉しくなって、横目でちらちら見ながら話しかける機会でもないかと思っていたところだった。

 

愛用していたIMCOという会社のライターを渡してやると、ほんとうはパイプはオイルライターではなくマッチで点火するものなのだが、彼は無造作にパイプにかざして火をつけた。

 

蒸気機関車が走り出すときのように、ボウルからもくもく白い煙が出た。

 

「IMCOか、俺もこれ使ってたんだよね。」

 

「火が消えにくいし、使いやすいので気に入ってます」

 

「屋外でパイプを吸う時は、これがいいんだよ。風防がついてて、風で火が消えない。」

 

「屋外でも吸われるんですか?」

 

「ああ。カナダじゃねえ、パイプのボウルに傘をかぶせてやれば、屋外で好きにパイプを吸っていいんだ。山ん中にIMCOのライターを持っていって、これで火をつけて吸う」

 

「へえ、そうなんですね。パイプにつける傘みたいなやつがあるんですか。」

 

 

 

いろいろ話を聞いてみると、彼は日本パイプクラブ連盟の大会に出場したこともあるほどのパイプマニアだと分かった。

 

これは、参加者に3グラムの葉と3本のマッチを渡して、誰が一番長くパイプの火を維持できるか競うものだ。

 

吸ったことのある人なら分かると思うが、パイプの火というのはすぐ消えてしまうから、再点火せずに火を長く保つのはとても難しい。

 

そのうち彼は私のコーンパイプを手に取って、しげしげと眺めはじめた。

 

「コーンパイプか。」

 

「学生でお金がないもんで、これをずっと使っているんですよ。」

 

「コーンパイプなんてのは使い捨てるもんだ。マッカーサーが日本に来た時、なんでコーンパイプを使っていたか知ってるか。占領国のことが信用できないんで、なくなってもいいようにコーンパイプを持っていったのさ。」

 

この手の老人がしばしばそうであるように、彼もだんだんと無遠慮な態度を見せてきた。

 

ちなみに、マッカーサーの下りは嘘である。いろいろな俗説があるが、軍人らしいワイルドさを演出するためというのが事実らしい。ただし、彼はアメリカ本国で、ちゃんとした高価なブライヤーのパイプを使っていたというのは確かである。

 

「使ってないパイプあるから、あげる。」

 

「本当ですか。」

 

「ああ。一旦事務所行くついでに取ってくるから。新宿通り沿いの立ち飲みワインバルで落ち合おう。」

 

そのあと、しばらくカフェで彼の話を聞くことになった。

 

彼はもともとニューオータニだかのホテルマンをやっていて、今は四ツ谷のタウン誌の編集長をやっているらしい。

 

ホテルマンだった時の話をさんざん聞かされた。

 

なにしろ、皇族の誰それを相手にしたことがあるとかで、途中からほとんど家柄と金の話になった。

 

昔は皇族だの社長令嬢だのは雲の上の存在で、われわれ凡人のようにあくせく働いたりせず、夏はまる一月以上別荘に住んで、文化を享受する生活を送っていたんだ、そんな階級も日本にはあったほうがいい、とかなんとか。

 

 

吃りがちに大声で話すのは、耳が遠いせいもあるからだろう。こちらが何か言っても大して取り合わず自分の好き勝手に喋るので、意思の疎通はほぼ困難だった。

 

とんでもない俗物ぶりに辟易しながらも、彼は無造作に財布から名刺を取り出して僕に寄越した。

 

今も家のどこかにあるだろう。

 

 

 

 

さて、その後とりあえず僕らはカフェを出て、19時に指定されたワインバルで落ち合った。

 

コーンパイプでない、ちゃんとしたパイプが持てると思うと少し嬉しかった。

 

さて、4、5人がやっと立って入れるくらいの小さな店に着くなり、狭いカウンターにたった一人のバイトらしき店員に、ワインとつまみの生ハムを注文した。

 

パイプ呑みの男はここの常連らしかった。

 

「お二人はどういった関係で」

 

「ともだち」

 

「あ、どうも、はじめまして」

 

「どこで知り合ったんですか」

 

「カフェで、パイプを吹かしてたから」

 

男はワインを飲んで上機嫌になりながら、店員に馴れ馴れしく話しかけた。

 

「この生ハム、でかいねえ。薄く削んないで、塊で出したらどうだね。金は出すから、やってくれないか」

 

「一ぺんやってみたんですが、塊だとおいしくないんですよ」

 

「へえ、そうかえ」

 

店員だったらうんざりするだろうなあ、と思いながら、僕はパイプのことを考えていた。

 

そうこうするうちに、店にはちらほら他の客が入って来た。

 

みな男とは知り合いらしい。

 

中年くらいの女が、僕らに興味を持って話しかけて来た。

 

僕が学生だと聞いて驚いていた。

 

 

 

僕も男も、店にいる客はすっかり出来上がっていた。

 

体が熱くなってもうろうとしながら、パイプは本当に持って来たのだろうか、などど考えていたが、こちらから言うのも図々しいと思ってので、パイプのことはついぞ口に出さなかった。

 

その後も男は無造作にメニューを指差し、ワインだのつまみだのを注文していった。

 

20時過ぎに彼女と会う約束があったので、ぼくばちらちら時計を見て出る時をうかがった。

 

「飲まないのか」

 

「すみません、そろそろ用があるのでおいとまします。」

 

「おう」

 

「今日はありがとうございました」

 

 

火照った体をかかえて、そのまま新宿通りをまっすぐ四谷駅に向かって歩いた。

 

抑えて飲んでいたつもりだったが、彼女はぼくに会うなり、息が酒臭いのを詰った。

 

こういうのは生理的な嫌悪を催すことだろう。まったくろくでもないことをしたものだ。

 

「パイプは自分で買おう」

 

気まずい空気におじけずき、うなだれて謝罪の言葉を重ねつつ、ぼくはそう思って雨のふりしきる新宿通りを歩いた。