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エントロピーの増大と生の苦しみに関する試論

一体いつからこんなに生きることが辛くなったのだろうか。

 

思えば10歳のときから、生きることはとても苦しいことだった。

当時ぼくは、神奈川県でも有数のミッション系中学校に受かるために、母に連れられて進学塾に通い始めていた。もともと私立の小学校に通っていたのに、その上どうして中学受験までさせられていたのかは分からない。

 

そのミッション系中学校というやつは、地元で知らない人はいないほどの進学校で、塾にも志望していた生徒がかなりいた。

ぼくはなぜか塾通いを始めた当初から、そこが第一志望だった。何度か学園祭に足を運んで、それなりに憧れは持っていたが、どの理由も後付けだろう。

なによりぼくを差し置いて最も憧れを持っていたのが、私の母だった。キリスト教徒の家庭だったから、まあその中学を志望するのは必然的なことだったかもしれない。だが母の熱の入りようは相当なもので、あらゆる手を使って入試担当者の教員と懇意になり、ぼくのノートや模試の答案を持っていっては見せていたくらいだ。

 

ぼくはなかばよく分からないまま、気がつけば人生で初めての競争に投げ込まれていたのである。

このころのエピソード記憶は断片的にしか残っていないが、思い出そうとすれば重苦しい印象をともなって、灰色の霧のなかにぼうっと浮かんでくる。

連日の眠気、頭痛、胃痛、下痢。

鮮明な記憶は幼少期のある時期に途切れ、途中からは頭が霧に包まれたような感覚が始まっている。この霧が5年くらいの間、一度も晴れることはなかった。

 

ぼくはずっと霧の中から抜け出す道を探していた。そして出口を模索するうちに、一つの信仰を持つに至った。第一志望の中学に合格すれば、この霧が必ず晴れて、平穏な生活が戻ってくる。きっとこの苦しみは、出口にたどり着くために必要なことなのだ。ぼくはこのような物語を作って、苦しみに意味を持たせようとしたのだろう。

 

定期的にやってくるテストは、毎回うまくいくとは限らない。塾の担任は家庭と密に連絡を取っていたから、ある晩突然電話がかかってくると、ぼくの近況が手に取るように伝えられた。

そして早朝にいきなり叩き起こされ、突然平手打ちを食らったこともある。ある日突然やってくる折檻、そして罵声、これらは避けようがなかった。

 

そういえば思い返すと、当時の両親の関係は最悪だったと思う。両親は中学生のときに離婚したが、その兆候はとっくに始まっていた。しかしその両親も、出来の悪い息子を責め立てるときだけは、実によく協力していたものだ。

 

加えて、小四の時からぼくはある別の事情により不登校を繰り返していたが(機会があればいつか書こう)、こんな劣悪な環境でも、私は例の信仰を固く持ち続けることで、日々死の誘惑に打ち勝っていた。

 

そしてついに、運命の日がやってきた。その年は中学受験者が例年より多く、激戦と聞いていた。私は畳に座って静かに父からの報告を待ったが、程なくして、ぼくの番号がないことを告げられた。

 

終戦の日玉音放送を聞いたかのような面持ちで、ぼくは一日中うなだれていた。

その後、母の命で志望校の入試担当者に手紙を書かされるなどしたものの、当然すげない返事が帰ってくるのみで、結局第三志望の別の進学校に進むことが決まった。

 

しかしその第三志望の中学校を受けた塾の仲間たちは、ぼく以外全滅しており、全く意中にない中学に進むことを余儀なくされた。

塾の担任はこれを奇跡だと驚いていた。

 

これで戦いの日々から解放され、頭の霧が晴れる—そう思っていたが、新しい中学校で待ち受けていたのは、過酷な現実だった。

関門を突破した人間の間で、さらにあと6年競争が続くということ。

 

新任の教員は教室に入るなり、早速センター試験の話をしはじめ、それから毎日我々に発破をかけた。

 

 

 

 

 

大人になってから、ぼくはふと焦燥感にかられて、常に努力を強いられ続けているような感覚に取り憑かれていることに気がついた。何をしても心から楽しめず、虚しさが募っていくばかりなのはなぜなのか。ぼくは今この焦燥感の生まれた原体験を、ゆっくりと回想している。

(続く)