ノスタルジア

私は20世紀も終わりのころ、東急田園都市線沿いのニュータウンに生まれた。

 

川崎のはずれにある、急行のとまらない小さな町だ。

 

私の住んでいた家はマンションの最上階で、広いルーフバルコニーが付いていた。

 

ちょうど家が建っている場所が谷底になっており、山の斜面には赤や青の色とりどりの屋根と、白い壁を持つ人家がびっしりと密集していた。

 

正面からは、遠くまで続く谷と山々が見渡せ、とうに廃園となったある遊園地の観覧車が、かつては小さく見えていたものだ。

 

今思い返すと、とても不思議な風景だった。

 

私は物心ついた頃からずっと、この風景を見て育ってきた。

 

 

 

家の近くには小学校があり、背の高い木々に囲まれて、こんもりした緑の間から古びた校舎がにゅっと顔を覗かせていた。

 

夏の夕暮れになると、小学校からは太鼓を練習する音が聞こえてきた。

 

小学校と林の上の空が金色に染まるころ、私はバルコニーに出る敷居に腰かけ、祭りの音頭と単調な太鼓の音にじっと聞き入るのが好きだった。

 

哀愁を帯びた短調の歌声と、子供が叩く不揃いな太鼓の音が、オレンジ色に浮かぶ山の稜線を残して、あたりがすっかり暗くなるまで延々と続くのだ。

 

そのころにはミンミン蝉の鳴き声も、クマゼミのしゃあしゃあいう鳴き声にかわっている。

 

私は兄弟もなく、娯楽も大して与えられてはいなかったが、一人でぼんやりバルコニーからの景色を見ているだけで、小さい頃は満ち足りていた。

 

誰とも話していない時であっても、まわりを取り巻く世界が常に私に語りかけていたのだ。

(つづく)

 

 

都市の孤独

外は雨。あと一週間もいられないこの家の屋根を、ぱらぱらと雨粒が打ち付ける。

 

眠らなければいけないと分かっていながら、机に向かってパソコンを開いている。

 

昨日と今日(とはいっても先ほど日付が変わったが)、京都から来た大切な客人と、東京の街を一緒に歩いていた。

 

初日の東京は狂ったように蒸し暑く、物見遊山には全くもって適さない日だった。

 

そのためもっぱらカフェで休んでいる時間の方が長かった。

 

「孤独と寂しさは違う」あるとき、そんな話になった。

 

私は少し考えて、納得できるような心持ちがした。

 

それはサルトルが『存在と無』の中で、不安と恐怖の違いについて書いているのを読んだ時のような心持ちだった。

 

 

 

彼女も私も、場所は違えど孤独な都市生活者である。

 

私は東京で一人暮らしを始めてから、孤独を実感する機会が増えたように思える。

 

いくら大学のある街に住んでいるとはいえ、越してきたばかりのころ、夜の街を歩くと異国の都市にいるような感覚を覚えた。今でもその感覚は少し残っている。

 

深夜に腹が減ってふらっと近くの中華屋に入り、煙草に火をつけて料理を待っていると、まるでひとり旅をしている時のような孤独を感じる。

 

しかし同時に、自由になれた気もした。

 

深夜に飯を食いに出ても何ら咎められず、体に悪いものを食って、自分で働いて稼いだ金で勘定を済まし、一服して帰る。私の望むままに。

 

この孤独は、自由の裏返しだと私は気がついた。

 

とても心地のよい孤独だ。

 

しかし、都会に住んでみてもっと感じるようになったのは、寂しさだ。

 

私は一人暮らしをはじめた最初の冬、ひどい窮乏状態に陥ってしまい、人と会う金すら惜しくて家に引きこもっていることが多かった。

 

人との繋がりが欲しい。誰かと会って話がしたい。

 

猛烈にそう思う瞬間があった。

 

もっともその時は彼女がいたから、手軽に寂しさを紛らそうと思えばできたのだが、それをしないだけの事情もあった。

 

まあそれは時が満ちたら書こうかと思う。

 

さて、寂しさを感じる瞬間は当然今でもあるが、都会は金さえあれば簡単に紛らしてくれるものが多くある。

 

それに友人だって増えたから、私はいつだって会いに行ける。

 

今の方が幸せだ。

 

 

 

ところで先ほどの続きだが、彼女とは孤独と寂しさのどちらがいいかという話になった。

 

孤独はいいものだが、寂しさには耐えられない、という方向でまとまったように思う。

 

人は自由であるがゆえに孤独だが、それでも人との繋がりを求めている。

 

これは手垢のついた言葉で、あまり真顔で言うほどのことでもないだろうが、二年間かけて身をもって学んだ真理を、私は今自覚したように思える。

 

 

 

 

この続きを書きたいが、眠気が勝ってしまった。

 

だがきっとまた更新するだろう。

愛すべき生活

四ツ谷に越してもう一年と半年が経つ。

 

この家での暮らしにはかなり満足している。

 

まず電車を使わずに大学に通える。朝の通勤ラッシュ地獄を味わう必要がないのは本当によいことで、これがないと1日のストレスが3割は減る。

 

実家から通っていたときは、毎日電車の中で腹が痛くなって難儀したものだ。

 

それから新宿にすぐ出られること。

 

新宿はおそらく、東京の中で最も規模の大きい街なのではないか。

 

私鉄三線のターミナル駅になっており、近郊のあらゆる地域から人が集まってくる。

 

駅の周りには百貨店が立ち並び、ここで手に入らないものは何もない。(「新宿は世界の半分」だと思っている)

 

そして大きな本屋があり、そこの新書コーナーに行けば、各分野の最先端の知識がずらりと並んでいる。

 

そのため近郊に住むのと都内に住むのでは、触れられる情報量が段違いである。

 

フットワークを軽くして、気軽にコンサートや映画、歌舞伎を観に行くことだってできるから、やはり文化に触れられる度合いだって違う。

 

私は大学の長い休暇の間、刺激に飢えて、しばしば新宿まで足を伸ばしていた。

 

特に何をするわけでもなく、東口の喫煙所近くの人だかりやら、歌舞伎町の喧騒やら、ヴァニラの街宣車やらを眺め、あてもなくぶらつき、紀伊国屋で本を選び、加賀屋で煙草を買い、名曲喫茶の「らんぶる」か西口の「ピース」でパイプをくゆらせつつ、買った本を読むのが好きだった。

 

それが私の休日の過ごし方である。

 

しかしここに越してきた当初は、今のように割りのいいアルバイトをしていたわけではないからじじゅう金欠で、休日は大学の図書館か、四ツ谷の安いカフェに篭るほかなかった。

 

だいたいそこに篭って語学の予習をしていた。

 

教職で毎日大学に通い、休日はえげつない量のギリシア語の課題とたまった家事をこなし、忙しさに潰れそうになりながらも、それなりに楽しくやっていた。

 

自炊も当初は欠かさなかった。金がなかったから、一食の食材費を300円程度に制限して、その範囲で好きなおかずを作った。

 

始めると凝りだすもので、上野の合羽橋商店街で鉄のフライパンを調達し、本格的な中華を作ってみたこともあった。

 

ただ時間を取られるため、ある程度まとまった金を稼げるようになってからは、やよい軒にお世話になっている。

 

こんな生活も、あとわずかだ。

 

この家での生活には、本当にたくさんの思い出がある。ここに書いていないことも含めて。

 

本当に寂しい。