煙草というファルマコン

むかし7号館の下に喫煙所があって、大抵そこに学科の先輩や同期がいた。研究室から近かったので、皆よく立ち寄ったものだ。思えば私の学生生活と煙草は切っても切り離せない。哲学書を紐解くときのお供は煙草だったし、パイプを教えてくれたのは学科の先輩だった。
一服するにしろ、茶をしばくにしろ、飲みに行くにしろ、人が集う輪の中心には、しばしば中毒性のある嗜好品がある。そして、われわれは普段そういったものの毒性に無頓着だ。試しに紅茶を長く口に含んでみてほしい。だんだんと舌が痺れてくるところから、カフェインが緩やかに神経に作用する毒だと分かるだろう。だが紅茶は気分を爽快にし、集中力を高めてくれる。アルコールもまた脳を麻痺させる毒だが、飲めば朗らかになり、それがもたらす陶酔は心の垣根を取り払う。
毒が時として益をもたらすことは、二千年以上前から知られていた。ギリシア語のファルマコン(pharmakon)という語は、毒と薬の両方を意味する。英語のpharmacyの語源だ。たとえばソクラテスは裁判で不当に告発され、死刑を宣告されるわけだが、刑に使われる毒人参の汁は、『パイドン』篇でファルマコンと呼ばれている。それは死をもたらす毒であるとともに、魂の牢獄(セーマ)である肉体(ソーマ)から彼の魂を解放する薬でもあるため、該当箇所は両義性をもって解釈されるのだ。
また薬も、副作用を全く伴わないものはないし、度を越せば身体を害す。そういえば煙草も何千年もの間、インディアンが薬として使ってきたそうだ。たしかにパイプをゆっくりと吹かせば沈鬱な気分がやわらぎ、思考はクリアになる。これを薬として使わない手はないだろう。彼らは儀式のたびにパイプを回して吸ったそうだが、思えば紫煙を薫せながらの社交には、喫煙所の外でのそれとは違った一体感があるものだ。
私は一服しながらつくづくと考える。煙草がもたらす享楽は、こういったファルマコンのもつ両義性に由来しているのだろうと。

 

(上智新聞寄稿)

救難信号

困った事になった。

 

かねてから手を焼いていた不眠が一向に治らないどころか、このところ悪化の一途を辿っている。

 

処方されていたた薬は、一回一錠から2錠に増やしてもらったが、とうとう効き目がなくなってきた。

 

決まって早朝に目が覚め、しばらく眠気が来るのを待ってもう一眠りし、目覚めると昼近くなっている。

 

意識がある間、なんとも言いようのない不快感に苛まれ、何をするにも意欲が湧いてこない。

 

頭の中がざわつき、抽象的な哲学書など読むどころではない。

 

 

 

些細なしくじりから始まった停滞が、何十倍にも増幅して、私のすることなすこと、いっさいの手をとめている。

 

 

 

今日は気晴らしに江ノ島に出かけてきた。

 

海辺をぶらぶら歩いてきたら多少気は晴れたが、それでも頭のざわつきは止まない。

 

 

 

二十三年の人生で停滞していた時期というのはたしかにあったし、それは下手すれば今よりも辛く、抜け出るのに五年の歳月を要した。

 

10代の閉塞感というのは多かれ少なかれ誰もが経験するが、それは多くの場合、等身大の自分を肯定し、自分自身との付き合い方を学んでいくことで、自然に抜け出せるものだ。

 

だが、今回は自分の外部に原因があり、それも複数の要素が連関していて、自分一人の力ではどうにも抜け出せそうにない。

 

私の焦燥感と不安に苛まれた様子を見て、離れていった人もいる。

 

 

 

私は今まで自分の強さを信じてきたし、よく生きようとする努力を放棄して、ある時点から怠惰に日を明かすようになった仲間たちを見下したこともあった。

 

だが、人がかくも簡単に無気力に落ち込んでしまうとは思ってもみなかった。

 

私ははじめて、一人の人間の弱さを思い知った。

 

どうにかして、ここから抜け出したい。

 

深い霧の中に閉ざされた中、返ってくるあてのない救難信号を、虚空に向かって発し続けている。

 

 

救難信号

困った事になった。

 

かねてから手を焼いていた不眠が一向に治らないどころか、このところ悪化の一途を辿っている。

 

処方されていたた薬は、一回一錠から2錠に増やしてもらったが、とうとう効き目がなくなってきた。

 

決まって早朝に目が覚め、しばらく眠気が来るのを待ってもう一眠りし、目覚めると昼近くなっている。

 

意識がある間、なんとも言いようのない不快感に苛まれ、何をするにも意欲が湧いてこない。

 

頭の中がざわつき、抽象的な哲学書など読むどころではない。

 

 

 

些細なしくじりから始まった停滞が、何十倍にも増幅して、私のすることなすこと、いっさいの手をとめている。

 

 

 

今日は気晴らしに江ノ島に出かけてきた。

 

海辺をぶらぶら歩いてきたら多少気は晴れたが、それでも頭のざわつきは止まない。

 

 

 

二十三年の人生で停滞していた時期というのはたしかにあったし、それは下手すれば今よりも辛く、抜け出るのに五年の歳月を要した。

 

10代の閉塞感というのは多かれ少なかれ誰もが経験するが、それは多くの場合、等身大の自分を肯定し、自分自身との付き合い方を学んでいくことで、自然に抜け出せるものだ。

 

だが、今回は自分の外部に原因があり、それも複数の要素が連関していて、自分一人の力ではどうにも抜け出せそうにない。

 

私の焦燥感と不安に苛まれた様子を見て、離れていった人もいる。

 

 

 

私は今まで自分の強さを信じてきたし、よく生きようとする努力を放棄して、ある時点から怠惰に日を明かすようになった仲間たちを見下したこともあった。

 

だが、人がかくも簡単に無気力に落ち込んでしまうとは思ってもみなかった。

 

私ははじめて、一人の人間の弱さを思い知った。

 

どうにかして、ここから抜け出したい。

 

深い霧の中に閉ざされた中、返ってくるあてのない救難信号を、虚空に向かって発し続けている。

 

 

読書の記録

2018年があと数時間で終わる。

 

自分のことばかりしみじみ語っても仕方ないので、今年読んだ本のかんたんなまとめをしてみたいと思う。

 

詳しい批評はまた別の機会に回すとし、ここでは簡単に触れるにとどめる。

 

選りすぐりの三つを以下に挙げよう。

 

・リチャード=ドーキンス利己的な遺伝子

 

これは、四月に急性肝炎にかかっていた時のブログにも書いたが、生物学の古典とも言うべき本で、簡単に言えば、個体の利他的なふるまいは利己的な行動原理に基づくという内容である。我々の道徳観を根底からゆるがしかねない本だ。まだ通読はできていないが、ゲーム理論を生物の進化に持ち込んでいるところが興味深い。

たとえば、好戦的な個体と平和的な個体を比較し、単独であれば前者は後者より多くの利益を得るが、群で行動する場合、好戦的な個体ばかりでは結局全体の利益が減ってしまうということを言っており、実際の群では好戦的な個体と平和的な個体の比率がある割合で均衡を保っている、と述べている。具体的には、喧嘩を仕掛けて相手のエサを横取りする場合などを考えてみれば分かるだろう。

人間の群の中でも同じようなことがあてはまるのではないか、という記述が多く、興味深かった。人間関係において多少なりとも参考になるかもしれない。

 

ホメロスオデュッセイア

 

イーリアス』は2017年に読み切り、そのあと年をまたいで『オデュッセイア』に取り掛かった。前者が、「μῆνιν ἄειδε θεὰ Πηληϊάδεω Ἀχιλῆος(怒りを歌え、女神よ。ペレウスの子アキレウスの・・・。)」で始まるのに対し、後者は「Ἄνδρα μοι ἔννεπε, Μοῦσα, πολύτροπον, ὃς μάλα πολλὰ(あの男のことを わたしに 語ってください ムーサよ 数多くの苦難を経験した「あの男」を)」で始まっており、どちらもムーサの女神が語り手に憑依して物語るという形式を取っている。

 

両作品について語るべきことは多く、古典文献学の徒としてもいずれ詳しく扱いたいものだ。

 

オデュッセイア』のあらすじは、トロイア戦争の英雄、智謀にたけたオデュッセウスが、ふとしたことで海神ポセイダオンの怒りを買い、長い困難の歳月を経て故郷イタケに帰還するまでの物語である。

 

困難な状況に立ち向かう人間の普遍的心理が描かれている。

 

イーリアス』では、神々の気紛れとも言うべき偶然に翻弄され、身の破滅を知りながらも自らの運命を全うせんとする英雄たちの姿が描かれていた。

アキレウスヘクトルのような立派な男も、運命の手を逃れることはできない。

 

しかし『オデュッセイア』では、積極的に自らの手で運命を切り開こうとする人間の姿が主題であり、『イーリアス』と対象的である。

 

この転回については、ドッズの『ギリシア人と非理性』を読んでみれば分かるだろう。(これもまだ通読できていないが)

 

ミランクンデラ『存在の耐えられない軽さ』

 

20世紀を代表するチェコの作家、ミランクンデラの代表作である。僕はこれを、哲学科の学部時代の同期から勧められて手に取った。

 

舞台はプラハの春前後のチェコスロバキアドンファンな外科医のトマーシュが、出張先の田舎町でウエイターをしていた娘テレザと出会い、古くからの愛人サビナと三角関係になりながらも結婚生活を送る。

 

冒頭でニーチェ永劫回帰が引用されており、トマーシュとテレザの人生が偶然性の連続であって、だからこそ一回一回の決断が軽く、また重々しいのだとこの小説は説く。

 

将来有望だった優秀な外科医は、女に不自由することもなかったし、ソ連占領下のプラハから脱出したのち、チューリヒで何不自由ない生活を送るチャンスがあった。

 

しかし、彼は田舎娘との出会いによって、西側での生活も、外科医の職も失い、最後は農村のトラック運転手となって生涯を終える。

 

一見すれば悲劇の連続に見えるが、最後は牧歌的で幸福な日常の連続の中で死を迎えた。

 

 

 

他の本や映画、美術の感想も、そのうちブログに載せるつもりだ。

 

今年も残すところ一月しかない。

 

それまでの年がそうであったように、2018年は目まぐるしく過ぎていき、ついに12月がやってきた。

 

二月までは院試の対策に追われ、三月は謝恩会の幹事の仕事に忙殺され、四月は肝炎を患って入院し、その後は夜10時まで研究室に籠る毎日だった。

 

とは言っても、暇を見つけてはときどき映画を観たり美術館に足をんだりしていたので、かろうじて生活を楽しむゆとりは残されている。

 

また幸いなことに、僕にはある大切な友人がいて、その人と語らう時間が院生生活を孤独から遠ざけているのだ。

 

 

 

ぼくは夏から今までブログを更新しなかった。

 

どういうわけか、書きたいという衝動があまり起こらない。

 

いや、本当は書きたいものは沢山あるのだ。

 

観た映画のレビューや小説の感想、哲学の話、それらのまとめ等々。

 

 

 

そういったものではなく、一人暮らしの部屋で独り言を呟くように、僕が思っていること、心に浮かんだことを、こうして文章にしてみようという気持ちがあまり湧かないのだ。

 

八月から時間の進み方が早くなり、経験することの濃密さは薄れ、毎日が同じことの連続になりつつある。

 

僕は講義の予習で手を抜くことを覚えた。

 

机に向かって学ぶことも大切だが、映画や美術を観ること、趣味のいい服を選んで着飾ること、ワインを飲んで人と語らうことの方が大切だ。

 

ぼくらのような院生という人種は生活を疎かにしがちだが、生きていれば腹も減るし遊びたくなる。つまりは一個の動物なのだ。

 

昔の学生のように、昼飯代を浮かせて本を買うなんて真似はすべきではない。

 

 

 

今の生活はそこそこ楽しい。少し前まで書くことが救済になるような感じがしたが、今はそういったことは自分にとって必要でないのかもしれない。

 

書を捨てて街に出たい。僕はもっと自分の足と目を使って、この世界という大きな書物を紐解きたいのだ。

 

学識も名誉も投げ打って、メフィストフェーレスとともに諸国を遍歴したファウストのように。

 

 

 

 

パイプ呑みの男

時刻は9時を回った。

 

この時間に四ツ谷で開いているカフェは限られてくる。

 

夜遅くにカフェで作業したくなったときは、決まって少し歩いて、四谷三丁目のコーヒーチェーンに入る。

 

ひろびろとした喫煙席があって、コーヒーがとても安いのだ。

 

なにより23時までやっているのがありがたい。

 

 

 

まだ僕が四ツ谷に住んでいたころ、このカフェの喫煙席で奇妙な出会いがあった。

 

ぼくはパイプをふかしながら専攻の文献を読んでいると、隣の席にいた初老の男が火を貸してくれと言ってきた。

 

彼もパイプスモーカーだったのだ。

 

僕は同じパイプ吹きを偶然近所のカフェで見つけたものだから、少し嬉しくなって、横目でちらちら見ながら話しかける機会でもないかと思っていたところだった。

 

愛用していたIMCOという会社のライターを渡してやると、ほんとうはパイプはオイルライターではなくマッチで点火するものなのだが、彼は無造作にパイプにかざして火をつけた。

 

蒸気機関車が走り出すときのように、ボウルからもくもく白い煙が出た。

 

「IMCOか、俺もこれ使ってたんだよね。」

 

「火が消えにくいし、使いやすいので気に入ってます」

 

「屋外でパイプを吸う時は、これがいいんだよ。風防がついてて、風で火が消えない。」

 

「屋外でも吸われるんですか?」

 

「ああ。カナダじゃねえ、パイプのボウルに傘をかぶせてやれば、屋外で好きにパイプを吸っていいんだ。山ん中にIMCOのライターを持っていって、これで火をつけて吸う」

 

「へえ、そうなんですね。パイプにつける傘みたいなやつがあるんですか。」

 

 

 

いろいろ話を聞いてみると、彼は日本パイプクラブ連盟の大会に出場したこともあるほどのパイプマニアだと分かった。

 

これは、参加者に3グラムの葉と3本のマッチを渡して、誰が一番長くパイプの火を維持できるか競うものだ。

 

吸ったことのある人なら分かると思うが、パイプの火というのはすぐ消えてしまうから、再点火せずに火を長く保つのはとても難しい。

 

そのうち彼は私のコーンパイプを手に取って、しげしげと眺めはじめた。

 

「コーンパイプか。」

 

「学生でお金がないもんで、これをずっと使っているんですよ。」

 

「コーンパイプなんてのは使い捨てるもんだ。マッカーサーが日本に来た時、なんでコーンパイプを使っていたか知ってるか。占領国のことが信用できないんで、なくなってもいいようにコーンパイプを持っていったのさ。」

 

この手の老人がしばしばそうであるように、彼もだんだんと無遠慮な態度を見せてきた。

 

ちなみに、マッカーサーの下りは嘘である。いろいろな俗説があるが、軍人らしいワイルドさを演出するためというのが事実らしい。ただし、彼はアメリカ本国で、ちゃんとした高価なブライヤーのパイプを使っていたというのは確かである。

 

「使ってないパイプあるから、あげる。」

 

「本当ですか。」

 

「ああ。一旦事務所行くついでに取ってくるから。新宿通り沿いの立ち飲みワインバルで落ち合おう。」

 

そのあと、しばらくカフェで彼の話を聞くことになった。

 

彼はもともとニューオータニだかのホテルマンをやっていて、今は四ツ谷のタウン誌の編集長をやっているらしい。

 

ホテルマンだった時の話をさんざん聞かされた。

 

なにしろ、皇族の誰それを相手にしたことがあるとかで、途中からほとんど家柄と金の話になった。

 

昔は皇族だの社長令嬢だのは雲の上の存在で、われわれ凡人のようにあくせく働いたりせず、夏はまる一月以上別荘に住んで、文化を享受する生活を送っていたんだ、そんな階級も日本にはあったほうがいい、とかなんとか。

 

 

吃りがちに大声で話すのは、耳が遠いせいもあるからだろう。こちらが何か言っても大して取り合わず自分の好き勝手に喋るので、意思の疎通はほぼ困難だった。

 

とんでもない俗物ぶりに辟易しながらも、彼は無造作に財布から名刺を取り出して僕に寄越した。

 

今も家のどこかにあるだろう。

 

 

 

 

さて、その後とりあえず僕らはカフェを出て、19時に指定されたワインバルで落ち合った。

 

コーンパイプでない、ちゃんとしたパイプが持てると思うと少し嬉しかった。

 

さて、4、5人がやっと立って入れるくらいの小さな店に着くなり、狭いカウンターにたった一人のバイトらしき店員に、ワインとつまみの生ハムを注文した。

 

パイプ呑みの男はここの常連らしかった。

 

「お二人はどういった関係で」

 

「ともだち」

 

「あ、どうも、はじめまして」

 

「どこで知り合ったんですか」

 

「カフェで、パイプを吹かしてたから」

 

男はワインを飲んで上機嫌になりながら、店員に馴れ馴れしく話しかけた。

 

「この生ハム、でかいねえ。薄く削んないで、塊で出したらどうだね。金は出すから、やってくれないか」

 

「一ぺんやってみたんですが、塊だとおいしくないんですよ」

 

「へえ、そうかえ」

 

店員だったらうんざりするだろうなあ、と思いながら、僕はパイプのことを考えていた。

 

そうこうするうちに、店にはちらほら他の客が入って来た。

 

みな男とは知り合いらしい。

 

中年くらいの女が、僕らに興味を持って話しかけて来た。

 

僕が学生だと聞いて驚いていた。

 

 

 

僕も男も、店にいる客はすっかり出来上がっていた。

 

体が熱くなってもうろうとしながら、パイプは本当に持って来たのだろうか、などど考えていたが、こちらから言うのも図々しいと思ってので、パイプのことはついぞ口に出さなかった。

 

その後も男は無造作にメニューを指差し、ワインだのつまみだのを注文していった。

 

20時過ぎに彼女と会う約束があったので、ぼくばちらちら時計を見て出る時をうかがった。

 

「飲まないのか」

 

「すみません、そろそろ用があるのでおいとまします。」

 

「おう」

 

「今日はありがとうございました」

 

 

火照った体をかかえて、そのまま新宿通りをまっすぐ四谷駅に向かって歩いた。

 

抑えて飲んでいたつもりだったが、彼女はぼくに会うなり、息が酒臭いのを詰った。

 

こういうのは生理的な嫌悪を催すことだろう。まったくろくでもないことをしたものだ。

 

「パイプは自分で買おう」

 

気まずい空気におじけずき、うなだれて謝罪の言葉を重ねつつ、ぼくはそう思って雨のふりしきる新宿通りを歩いた。

SF神学

 私が好きな映画の一つに、アンドレイ・タルコフスキーの「惑星ソラリス」がある。私の周囲の界隈でも、映画好きならたいてい知っている作品だ。

 

 最近、ハヤカワ文庫から出ているスタニスワフ・レムの原作を読み終えた。『ソラリス』(旧邦題『ソラリスの陽のもとに』1961年出版)は、ポーランドのSFの大家であるレムによって発表されて以来、西側でも大きな反響を受けた。

我が国でもいち早くロシア語から重訳されたそうだ。またタルコフスキー版のみならず、ハリウッドでも2002年に映画化されている。

 

この原作の主題は、未知なるものとの遭遇だ。

あらすじはこうである。ある遠い未来、ソラリスという惑星の観測ステーションに、心理学者である主人公のクリスが派遣されることになる。この惑星は発見されてから100年が経過しており、その特異性ゆえに多くの学者たちの注目を集めてきた。

ソラリスは、その全体が知性を持つ海に覆われているのだ。

二つの恒星を持つソラリスは、本来軌道が不安定であるはずなのに、知性を持つ海によってそれが一定に保たれている。

それだけではない。奇妙なことに、ソラリスの海は近づいてくるものを模倣する。

飛行士が海の表面に近づくと、宇宙船の形をそっくりそのまま真似た形のものが、時には明瞭に、時には半ば崩れながら、海の上に浮かび上がってくるのだ。この浮き上がってくるものは模倣体(ミモイド)と呼ばれ、その出現には一定のパターンがあると考えられているが、正確なことはわかっていない。

そして、他にも奇妙なものが、海の表面には多数出現する。

 

学者たちは何十年もかけて、この知性を持つ海とコンタクトを取ろうと試みてきた。

しかし、その試みは徒労のうちに終わった。

 

ときどき運良く海の思考の断片を拾うことができた。それはたしかに海が宇宙の数学的法則を理解していることを示唆するものだったが、海の思考から漏れ出たほんの僅かな一部分にすぎないのだ。

ソラリスの海は言ってみれば宇宙のヨガ行者で、孤独なモノローグを長い間続けているのかもしれない。

 

その次の瞬間には、海はすっかり人間たちへの関心を失い、果てしない沈黙が続くのである。

そしてソラリスの海の様子は刻一刻と変化し、その法則は掴み難かった。

 

かくて、多くの学者たちがソラリスの海を研究し、ソラリス学という学問が発展してきたが、謎が少しでも解明されることはなく、徒らにソラリスに関する本が書庫を埋め尽くすのみだった。

 

しかし、ソラリスの海が人間にまったく無関心だったかというと、そんなことはない。

ソラリスの海は、人間の姿形を認識していたかどうか定かではないが、人間の精神を直接覗き込んできた。

なんとソラリスの海は、人間の記憶にあるものを物質化させるのである。

 

主人公のクリス・ケルヴィンは、ソラリス・ステーションに到着するやいないなや、親友ギバリャンの自死を知るとともに、そこにいるはずのないものを目の当たりにする。

 

そして、何かにおびえきったような同僚スナウトと、部屋に篭ったまま出てこない、物理学者のサルトリウスの姿があった。

 

クリスは、荒れ果てたステーションと二人の様子を見て訝しむが、翌朝には全てを理解することになる。

枕元に、自殺した10年前の恋人ハリーが立っていたのだ。

 

スナウトとサルトリウスの元にも、彼らは来ていた。

「お客」と呼ばれる彼らは、眠っている間に、過去の抑圧していた記憶が物質化したものだ。

それはまるで生きている人間そのものだった。

 

クリスは、ハリーに負い目を感じていた。

当時19歳だった彼女は、クリスと口論したのち、毒薬を注射して自殺する。

ハリーはクリスと別れる前、自殺をほのめかしていたが、クリスはそんな勇気もないだろうとたかをくくり、ハリーを家に残して出て行ったのだ。

そして、目の前に現れたハリーの腕には、その時の注射痕がはっきり残っていた。

 

クリスはハリーと10年ぶりの会瀬を楽しむが、次第に罪悪感ゆえ彼女を疎ましく思うようになり、ロケットに乗せてソラリスの軌道に打ち上げてしまった。

 

しかし、翌朝にはまた何事もなかったかのようにハリーが現れるのだ。

クリスはやがて、ハリーを、いや正確に言えばニュートリノからできているその似姿を深く愛するようになる。

スナウトやサルトリウスは、それを嘲笑い咎めるものの、クリスはハリーと地球に帰って添い遂げる決心をする。しかしそれはできないことだとも分かっていた。

本来不安定で寿命の短いニュートリノは、ソラリスの磁場を離れれば崩壊してしまうのだ。

 

ソラリスの海が物質化させたものは、めいめいが負い目を感じている相手だった。

「お客」が現れたのは、寝ている間の脳波をX線に変換して海に照射するという、禁止されていた実験を行ってからだ。

親友ギバリャンは、良心の呵責ゆえ自殺してしまった。サルトリウスは一計を案じ、「お客」を消すために、今度は起きている間のクリスの脳波をX線に変換して海に照射することにした。

 

やがてハリーは、自らの存在がクリスを苦しめていることを悟ると、置き手紙を残して消えてしまった。

 

それから、ソラリスの海は二度と「お客」を送ってくることはなかった。

結局海とのコンタクトはそれきりになってしまった。クリス呆然としたままソラリスの海に降り立ち、未知なる海と対峙するのである。

原作はここで終わっている。

 

 

タルコフスキーの映画では、未知なるものとの遭遇という、レムの原作が最も中心に据えたテーマは扱われなかった。

それよりも、人間の良心をテーマにクリスの回心が描かれており、原作にはないクリスの家族まで登場し、最後はソラリスの島で父親と和解するという、聖書の放蕩息子をモティーフにしたシーンで終わっている。

 

これを見たレムは激怒し、また芸術至上主義のタルコフスキーも一歩も譲らず、「お前は馬鹿だ」というレムの捨て台詞残して、両者は喧嘩別れになってしまった。

 

ハリウッド版の方は、監督がレムの意図を読む力がなかったのか、あるいはハリウッド映画の例に漏れず大衆向けに書き換えたのか、ハリーとクリスの陳腐なラブストーリーにされてしまったようだ。

 

 

 

 

さて、私はこの原作を読んで、人間をはるかに超えた知性を持つ生命との邂逅から、神と対峙する人間のあり方を連想した。

 

ソラリス』の中盤から、ソラリスの海がいつまでも人間にとって未知である理由として、人間中心主義というキーワードが登場する。

われわれは、人間として生まれ持った特性として、あらゆる対象をそれが人間であるかのように表象してしまいがちである。

たとえば、古代ギリシアのクセノファネース(B.C.6)は、ホメーロスの擬人的神観をこう批判した。

 

    「しかし、かりに牛、馬、獅子などに、手によって描き作品をしあげる能力があるとすれば、馬は馬に似せて、牛は牛に似せて神々の姿を描くことだろう…」

 

われわれが神を人間として思い描くのは、われわれが人間に生まれたためである。だから、他の動物たちも神を持つとすれば、それらは自らと同じ姿に神を思い描くだろう、ということである。

 

ソラリス学者たちも、はじめはソラリスの海の変化を、人間がする行為に例えて解釈しようとしたことだろう。

しかしソラリスの海は、どうやら人間よりもはるかに高度な知性を持っているらしいということが薄々分かってくると、そのような解釈で海の反応を理解することは妥当でないと人間たちは気づきはじめる。

 ましてやソラリスの海は地球外の生命なのだから、地球の生物に通用するような見方は通じないだろう。そもそも生命と呼ぶべきものかも分からない。なにしろそれは、惑星全体を覆うゼリー状の物質なのだから…。

 

すると、沈黙を続けるソラリスの海に人間たちが見出すものは、海に投影された人間たち自身の内面だと言えるのではないだろうか。ソラリスの海は精神を映す鏡であり、言うなればきわめて卓越した精神分析者なのである。

 

 

 

我々が気付けば投げ込まれていたこの世界も、我々にとって依然として未知なるものであることに変わりはない。

時間と空間に始まりと終わりがあるのか、また世界は必然性が支配しているのか、人間に自由はあるのか、また神は存在するのか、といった疑問に、我々は答えるすべを持たない。

その上、われわれは不条理な運命のただ中にあって、濁流に浮かぶ木の葉のように翻弄され続けている。

数々の不幸に苛まれるヨブや、磔にされたイエスのように、神を、ないしは世界を前にして「なぜ、なぜ」と問い続ける時があるだろう。

 

ホメーロスの時代から、宗教や哲学は未知なるものへの解釈を与えてきたが、世界の理法や神という人知を超えたものに対して、それらはどれほど有効だったのだろうか。

例えば、我々は不運に見舞われるとき、そこに因果性というあくまで人間的な解釈を持ち込もうとすることがある。

こんな目にあったのは、私に落ち度があったためだ。私の罪過に対する応報なのだ、と。

 

しかし、我々が知っている通り、善き人、正しき人も不運に見舞われることがあるし、自分のうちにも何ら負い目が見当たらないこともある。そんなときのために、前世での業だとか、原罪だとかが発明されたのではないだろうか。

 

もう少し進んだ精神は、ふりかかる悪を、「理性の狡知」のように、世界全体の正義を実現するための代償として考えるのではないか。

広島と長崎に原爆が投下されたのは、ファシズムを終焉させるためのやむない犠牲であり、世界全体の自由の実現には、ボリシェビキに銃殺される無辜の人民や、ガス室で殺されるユダヤ人が必要だったのだ…というように。

 

しかしそんな理屈は、地下鉄にサリンを撒いたどこぞのカルトの教義と何が違うのだろうか。

 

 

 

さて、『ソラリス』の最後では、クリスは一切の解釈を放棄し、未知の海を呆然と眺める。人知を超えた海は、一切の人間中心主義的、地球中心主義的な解釈を拒絶し、得体の知れない存在であり続けるのだ。

この最後は、人間が置かれている状況を、一切の虚飾なしに、ありありと見せつける。クリスの態度は、どこかヨブを彷彿とさせるものがある。一切の救いも、世界を知る手がかりもなく、それでもクリスはグロテスクに変化するソラリスの海と対峙する。

 

ソラリスの海は、最後まで絶対的な他者でありつづけた。

 

この本は、言わば沈黙する神と世界を前にたたずむ人間に贈られた神学書なのである。