今年も残すところ一月しかない。

 

それまでの年がそうであったように、2018年は目まぐるしく過ぎていき、ついに12月がやってきた。

 

二月までは院試の対策に追われ、三月は謝恩会の幹事の仕事に忙殺され、四月は肝炎を患って入院し、その後は夜10時まで研究室に籠る毎日だった。

 

とは言っても、暇を見つけてはときどき映画を観たり美術館に足をんだりしていたので、かろうじて生活を楽しむゆとりは残されている。

 

また幸いなことに、僕にはある大切な友人がいて、その人と語らう時間が院生生活を孤独から遠ざけているのだ。

 

 

 

ぼくは夏から今までブログを更新しなかった。

 

どういうわけか、書きたいという衝動があまり起こらない。

 

いや、本当は書きたいものは沢山あるのだ。

 

観た映画のレビューや小説の感想、哲学の話、それらのまとめ等々。

 

 

 

そういったものではなく、一人暮らしの部屋で独り言を呟くように、僕が思っていること、心に浮かんだことを、こうして文章にしてみようという気持ちがあまり湧かないのだ。

 

八月から時間の進み方が早くなり、経験することの濃密さは薄れ、毎日が同じことの連続になりつつある。

 

僕は講義の予習で手を抜くことを覚えた。

 

机に向かって学ぶことも大切だが、映画や美術を観ること、趣味のいい服を選んで着飾ること、ワインを飲んで人と語らうことの方が大切だ。

 

ぼくらのような院生という人種は生活を疎かにしがちだが、生きていれば腹も減るし遊びたくなる。つまりは一個の動物なのだ。

 

昔の学生のように、昼飯代を浮かせて本を買うなんて真似はすべきではない。

 

 

 

今の生活はそこそこ楽しい。少し前まで書くことが救済になるような感じがしたが、今はそういったことは自分にとって必要でないのかもしれない。

 

書を捨てて街に出たい。僕はもっと自分の足と目を使って、この世界という大きな書物を紐解きたいのだ。

 

学識も名誉も投げ打って、メフィストフェーレスとともに諸国を遍歴したファウストのように。

 

 

 

 

パイプ呑みの男

時刻は9時を回った。

 

この時間に四ツ谷で開いているカフェは限られてくる。

 

夜遅くにカフェで作業したくなったときは、決まって少し歩いて、四谷三丁目のコーヒーチェーンに入る。

 

ひろびろとした喫煙席があって、コーヒーがとても安いのだ。

 

なにより23時までやっているのがありがたい。

 

 

 

まだ僕が四ツ谷に住んでいたころ、このカフェの喫煙席で奇妙な出会いがあった。

 

ぼくはパイプをふかしながら専攻の文献を読んでいると、隣の席にいた初老の男が火を貸してくれと言ってきた。

 

彼もパイプスモーカーだったのだ。

 

僕は同じパイプ吹きを偶然近所のカフェで見つけたものだから、少し嬉しくなって、横目でちらちら見ながら話しかける機会でもないかと思っていたところだった。

 

愛用していたIMCOという会社のライターを渡してやると、ほんとうはパイプはオイルライターではなくマッチで点火するものなのだが、彼は無造作にパイプにかざして火をつけた。

 

蒸気機関車が走り出すときのように、ボウルからもくもく白い煙が出た。

 

「IMCOか、俺もこれ使ってたんだよね。」

 

「火が消えにくいし、使いやすいので気に入ってます」

 

「屋外でパイプを吸う時は、これがいいんだよ。風防がついてて、風で火が消えない。」

 

「屋外でも吸われるんですか?」

 

「ああ。カナダじゃねえ、パイプのボウルに傘をかぶせてやれば、屋外で好きにパイプを吸っていいんだ。山ん中にIMCOのライターを持っていって、これで火をつけて吸う」

 

「へえ、そうなんですね。パイプにつける傘みたいなやつがあるんですか。」

 

 

 

いろいろ話を聞いてみると、彼は日本パイプクラブ連盟の大会に出場したこともあるほどのパイプマニアだと分かった。

 

これは、参加者に3グラムの葉と3本のマッチを渡して、誰が一番長くパイプの火を維持できるか競うものだ。

 

吸ったことのある人なら分かると思うが、パイプの火というのはすぐ消えてしまうから、再点火せずに火を長く保つのはとても難しい。

 

そのうち彼は私のコーンパイプを手に取って、しげしげと眺めはじめた。

 

「コーンパイプか。」

 

「学生でお金がないもんで、これをずっと使っているんですよ。」

 

「コーンパイプなんてのは使い捨てるもんだ。マッカーサーが日本に来た時、なんでコーンパイプを使っていたか知ってるか。占領国のことが信用できないんで、なくなってもいいようにコーンパイプを持っていったのさ。」

 

この手の老人がしばしばそうであるように、彼もだんだんと無遠慮な態度を見せてきた。

 

ちなみに、マッカーサーの下りは嘘である。いろいろな俗説があるが、軍人らしいワイルドさを演出するためというのが事実らしい。ただし、彼はアメリカ本国で、ちゃんとした高価なブライヤーのパイプを使っていたというのは確かである。

 

「使ってないパイプあるから、あげる。」

 

「本当ですか。」

 

「ああ。一旦事務所行くついでに取ってくるから。新宿通り沿いの立ち飲みワインバルで落ち合おう。」

 

そのあと、しばらくカフェで彼の話を聞くことになった。

 

彼はもともとニューオータニだかのホテルマンをやっていて、今は四ツ谷のタウン誌の編集長をやっているらしい。

 

ホテルマンだった時の話をさんざん聞かされた。

 

なにしろ、皇族の誰それを相手にしたことがあるとかで、途中からほとんど家柄と金の話になった。

 

昔は皇族だの社長令嬢だのは雲の上の存在で、われわれ凡人のようにあくせく働いたりせず、夏はまる一月以上別荘に住んで、文化を享受する生活を送っていたんだ、そんな階級も日本にはあったほうがいい、とかなんとか。

 

 

吃りがちに大声で話すのは、耳が遠いせいもあるからだろう。こちらが何か言っても大して取り合わず自分の好き勝手に喋るので、意思の疎通はほぼ困難だった。

 

とんでもない俗物ぶりに辟易しながらも、彼は無造作に財布から名刺を取り出して僕に寄越した。

 

今も家のどこかにあるだろう。

 

 

 

 

さて、その後とりあえず僕らはカフェを出て、19時に指定されたワインバルで落ち合った。

 

コーンパイプでない、ちゃんとしたパイプが持てると思うと少し嬉しかった。

 

さて、4、5人がやっと立って入れるくらいの小さな店に着くなり、狭いカウンターにたった一人のバイトらしき店員に、ワインとつまみの生ハムを注文した。

 

パイプ呑みの男はここの常連らしかった。

 

「お二人はどういった関係で」

 

「ともだち」

 

「あ、どうも、はじめまして」

 

「どこで知り合ったんですか」

 

「カフェで、パイプを吹かしてたから」

 

男はワインを飲んで上機嫌になりながら、店員に馴れ馴れしく話しかけた。

 

「この生ハム、でかいねえ。薄く削んないで、塊で出したらどうだね。金は出すから、やってくれないか」

 

「一ぺんやってみたんですが、塊だとおいしくないんですよ」

 

「へえ、そうかえ」

 

店員だったらうんざりするだろうなあ、と思いながら、僕はパイプのことを考えていた。

 

そうこうするうちに、店にはちらほら他の客が入って来た。

 

みな男とは知り合いらしい。

 

中年くらいの女が、僕らに興味を持って話しかけて来た。

 

僕が学生だと聞いて驚いていた。

 

 

 

僕も男も、店にいる客はすっかり出来上がっていた。

 

体が熱くなってもうろうとしながら、パイプは本当に持って来たのだろうか、などど考えていたが、こちらから言うのも図々しいと思ってので、パイプのことはついぞ口に出さなかった。

 

その後も男は無造作にメニューを指差し、ワインだのつまみだのを注文していった。

 

20時過ぎに彼女と会う約束があったので、ぼくばちらちら時計を見て出る時をうかがった。

 

「飲まないのか」

 

「すみません、そろそろ用があるのでおいとまします。」

 

「おう」

 

「今日はありがとうございました」

 

 

火照った体をかかえて、そのまま新宿通りをまっすぐ四谷駅に向かって歩いた。

 

抑えて飲んでいたつもりだったが、彼女はぼくに会うなり、息が酒臭いのを詰った。

 

こういうのは生理的な嫌悪を催すことだろう。まったくろくでもないことをしたものだ。

 

「パイプは自分で買おう」

 

気まずい空気におじけずき、うなだれて謝罪の言葉を重ねつつ、ぼくはそう思って雨のふりしきる新宿通りを歩いた。

SF神学

 私が好きな映画の一つに、アンドレイ・タルコフスキーの「惑星ソラリス」がある。私の周囲の界隈でも、映画好きならたいてい知っている作品だ。

 

 最近、ハヤカワ文庫から出ているスタニスワフ・レムの原作を読み終えた。『ソラリス』(旧邦題『ソラリスの陽のもとに』1961年出版)は、ポーランドのSFの大家であるレムによって発表されて以来、西側でも大きな反響を受けた。

我が国でもいち早くロシア語から重訳されたそうだ。またタルコフスキー版のみならず、ハリウッドでも2002年に映画化されている。

 

この原作の主題は、未知なるものとの遭遇だ。

あらすじはこうである。ある遠い未来、ソラリスという惑星の観測ステーションに、心理学者である主人公のクリスが派遣されることになる。この惑星は発見されてから100年が経過しており、その特異性ゆえに多くの学者たちの注目を集めてきた。

ソラリスは、その全体が知性を持つ海に覆われているのだ。

二つの恒星を持つソラリスは、本来軌道が不安定であるはずなのに、知性を持つ海によってそれが一定に保たれている。

それだけではない。奇妙なことに、ソラリスの海は近づいてくるものを模倣する。

飛行士が海の表面に近づくと、宇宙船の形をそっくりそのまま真似た形のものが、時には明瞭に、時には半ば崩れながら、海の上に浮かび上がってくるのだ。この浮き上がってくるものは模倣体(ミモイド)と呼ばれ、その出現には一定のパターンがあると考えられているが、正確なことはわかっていない。

そして、他にも奇妙なものが、海の表面には多数出現する。

 

学者たちは何十年もかけて、この知性を持つ海とコンタクトを取ろうと試みてきた。

しかし、その試みは徒労のうちに終わった。

 

ときどき運良く海の思考の断片を拾うことができた。それはたしかに海が宇宙の数学的法則を理解していることを示唆するものだったが、海の思考から漏れ出たほんの僅かな一部分にすぎないのだ。

ソラリスの海は言ってみれば宇宙のヨガ行者で、孤独なモノローグを長い間続けているのかもしれない。

 

その次の瞬間には、海はすっかり人間たちへの関心を失い、果てしない沈黙が続くのである。

そしてソラリスの海の様子は刻一刻と変化し、その法則は掴み難かった。

 

かくて、多くの学者たちがソラリスの海を研究し、ソラリス学という学問が発展してきたが、謎が少しでも解明されることはなく、徒らにソラリスに関する本が書庫を埋め尽くすのみだった。

 

しかし、ソラリスの海が人間にまったく無関心だったかというと、そんなことはない。

ソラリスの海は、人間の姿形を認識していたかどうか定かではないが、人間の精神を直接覗き込んできた。

なんとソラリスの海は、人間の記憶にあるものを物質化させるのである。

 

主人公のクリス・ケルヴィンは、ソラリス・ステーションに到着するやいないなや、親友ギバリャンの自死を知るとともに、そこにいるはずのないものを目の当たりにする。

 

そして、何かにおびえきったような同僚スナウトと、部屋に篭ったまま出てこない、物理学者のサルトリウスの姿があった。

 

クリスは、荒れ果てたステーションと二人の様子を見て訝しむが、翌朝には全てを理解することになる。

枕元に、自殺した10年前の恋人ハリーが立っていたのだ。

 

スナウトとサルトリウスの元にも、彼らは来ていた。

「お客」と呼ばれる彼らは、眠っている間に、過去の抑圧していた記憶が物質化したものだ。

それはまるで生きている人間そのものだった。

 

クリスは、ハリーに負い目を感じていた。

当時19歳だった彼女は、クリスと口論したのち、毒薬を注射して自殺する。

ハリーはクリスと別れる前、自殺をほのめかしていたが、クリスはそんな勇気もないだろうとたかをくくり、ハリーを家に残して出て行ったのだ。

そして、目の前に現れたハリーの腕には、その時の注射痕がはっきり残っていた。

 

クリスはハリーと10年ぶりの会瀬を楽しむが、次第に罪悪感ゆえ彼女を疎ましく思うようになり、ロケットに乗せてソラリスの軌道に打ち上げてしまった。

 

しかし、翌朝にはまた何事もなかったかのようにハリーが現れるのだ。

クリスはやがて、ハリーを、いや正確に言えばニュートリノからできているその似姿を深く愛するようになる。

スナウトやサルトリウスは、それを嘲笑い咎めるものの、クリスはハリーと地球に帰って添い遂げる決心をする。しかしそれはできないことだとも分かっていた。

本来不安定で寿命の短いニュートリノは、ソラリスの磁場を離れれば崩壊してしまうのだ。

 

ソラリスの海が物質化させたものは、めいめいが負い目を感じている相手だった。

「お客」が現れたのは、寝ている間の脳波をX線に変換して海に照射するという、禁止されていた実験を行ってからだ。

親友ギバリャンは、良心の呵責ゆえ自殺してしまった。サルトリウスは一計を案じ、「お客」を消すために、今度は起きている間のクリスの脳波をX線に変換して海に照射することにした。

 

やがてハリーは、自らの存在がクリスを苦しめていることを悟ると、置き手紙を残して消えてしまった。

 

それから、ソラリスの海は二度と「お客」を送ってくることはなかった。

結局海とのコンタクトはそれきりになってしまった。クリス呆然としたままソラリスの海に降り立ち、未知なる海と対峙するのである。

原作はここで終わっている。

 

 

タルコフスキーの映画では、未知なるものとの遭遇という、レムの原作が最も中心に据えたテーマは扱われなかった。

それよりも、人間の良心をテーマにクリスの回心が描かれており、原作にはないクリスの家族まで登場し、最後はソラリスの島で父親と和解するという、聖書の放蕩息子をモティーフにしたシーンで終わっている。

 

これを見たレムは激怒し、また芸術至上主義のタルコフスキーも一歩も譲らず、「お前は馬鹿だ」というレムの捨て台詞残して、両者は喧嘩別れになってしまった。

 

ハリウッド版の方は、監督がレムの意図を読む力がなかったのか、あるいはハリウッド映画の例に漏れず大衆向けに書き換えたのか、ハリーとクリスの陳腐なラブストーリーにされてしまったようだ。

 

 

 

 

さて、私はこの原作を読んで、人間をはるかに超えた知性を持つ生命との邂逅から、神と対峙する人間のあり方を連想した。

 

ソラリス』の中盤から、ソラリスの海がいつまでも人間にとって未知である理由として、人間中心主義というキーワードが登場する。

われわれは、人間として生まれ持った特性として、あらゆる対象をそれが人間であるかのように表象してしまいがちである。

たとえば、古代ギリシアのクセノファネース(B.C.6)は、ホメーロスの擬人的神観をこう批判した。

 

    「しかし、かりに牛、馬、獅子などに、手によって描き作品をしあげる能力があるとすれば、馬は馬に似せて、牛は牛に似せて神々の姿を描くことだろう…」

 

われわれが神を人間として思い描くのは、われわれが人間に生まれたためである。だから、他の動物たちも神を持つとすれば、それらは自らと同じ姿に神を思い描くだろう、ということである。

 

ソラリス学者たちも、はじめはソラリスの海の変化を、人間がする行為に例えて解釈しようとしたことだろう。

しかしソラリスの海は、どうやら人間よりもはるかに高度な知性を持っているらしいということが薄々分かってくると、そのような解釈で海の反応を理解することは妥当でないと人間たちは気づきはじめる。

 ましてやソラリスの海は地球外の生命なのだから、地球の生物に通用するような見方は通じないだろう。そもそも生命と呼ぶべきものかも分からない。なにしろそれは、惑星全体を覆うゼリー状の物質なのだから…。

 

すると、沈黙を続けるソラリスの海に人間たちが見出すものは、海に投影された人間たち自身の内面だと言えるのではないだろうか。ソラリスの海は精神を映す鏡であり、言うなればきわめて卓越した精神分析者なのである。

 

 

 

我々が気付けば投げ込まれていたこの世界も、我々にとって依然として未知なるものであることに変わりはない。

時間と空間に始まりと終わりがあるのか、また世界は必然性が支配しているのか、人間に自由はあるのか、また神は存在するのか、といった疑問に、我々は答えるすべを持たない。

その上、われわれは不条理な運命のただ中にあって、濁流に浮かぶ木の葉のように翻弄され続けている。

数々の不幸に苛まれるヨブや、磔にされたイエスのように、神を、ないしは世界を前にして「なぜ、なぜ」と問い続ける時があるだろう。

 

ホメーロスの時代から、宗教や哲学は未知なるものへの解釈を与えてきたが、世界の理法や神という人知を超えたものに対して、それらはどれほど有効だったのだろうか。

例えば、我々は不運に見舞われるとき、そこに因果性というあくまで人間的な解釈を持ち込もうとすることがある。

こんな目にあったのは、私に落ち度があったためだ。私の罪過に対する応報なのだ、と。

 

しかし、我々が知っている通り、善き人、正しき人も不運に見舞われることがあるし、自分のうちにも何ら負い目が見当たらないこともある。そんなときのために、前世での業だとか、原罪だとかが発明されたのではないだろうか。

 

もう少し進んだ精神は、ふりかかる悪を、「理性の狡知」のように、世界全体の正義を実現するための代償として考えるのではないか。

広島と長崎に原爆が投下されたのは、ファシズムを終焉させるためのやむない犠牲であり、世界全体の自由の実現には、ボリシェビキに銃殺される無辜の人民や、ガス室で殺されるユダヤ人が必要だったのだ…というように。

 

しかしそんな理屈は、地下鉄にサリンを撒いたどこぞのカルトの教義と何が違うのだろうか。

 

 

 

さて、『ソラリス』の最後では、クリスは一切の解釈を放棄し、未知の海を呆然と眺める。人知を超えた海は、一切の人間中心主義的、地球中心主義的な解釈を拒絶し、得体の知れない存在であり続けるのだ。

この最後は、人間が置かれている状況を、一切の虚飾なしに、ありありと見せつける。クリスの態度は、どこかヨブを彷彿とさせるものがある。一切の救いも、世界を知る手がかりもなく、それでもクリスはグロテスクに変化するソラリスの海と対峙する。

 

ソラリスの海は、最後まで絶対的な他者でありつづけた。

 

この本は、言わば沈黙する神と世界を前にたたずむ人間に贈られた神学書なのである。

肝臓をやられた私は、人間がいかにして利他的になれるのか考えることにした。

もう明日から学校が始まる。忙しい研究の毎日が。

 

しかし、僕は家に籠ってベッドに寝そべるだけで、明日からの授業の準備をするわけでもなく、とにかく何一つ生産的なことをしていない。

 

それは昨日の朝のことだった。

早朝から枕元に置いたiPhoneが震えているのを、薄ぼんやりした意識で感じ取っていたが、ようやく体が動くようになって手に取ると、主治医から電話が入っていた。

「緊急入院です」

 

その一言で全てを察し、跳ね起きるなり大急ぎででかいトランクを引っ張り出した。

 

僕は入学式の前日まで京都旅行に行っていたのだが、帰った時から風邪で高熱が出たり下がったりを繰り返し、仕方なく地元の医者にかかって血液検査をしてもらうことになった。

 

その結果の紙を医者が突き出し、見ろと促すが当然分からない。GOT,GPT値が500を超えている。基準値の10倍だ。これはあなた、肝臓の細胞がすごい勢いで破壊されてる、ということですよ。

 

そのまま医師の紹介で大学病院に向かうこととなった。

 

そこの担当の医師はそこまで深刻には受け止めなかったらしく、経過観察でよいと判断され、幸か不幸か即日釈放となった。

 

はじめに診てもらった医者はそれを聞いて憤ったが、僕にどうこうできることではなく、まあ家で大人しくしていようということで、今こうして1日丸太のように過ごしている。

(詳しい説明は省くが、僕はいたって元気にしているし、よくある一過性の病気の可能性が高いので、読者諸氏の心配には及ばない。)

 

 

 

まあしかしここ数ヶ月の間、学科の仕事で毎日休みなく働きづめだった。

 

僕は常に動き回っていないと気が済まないたちだから、こんな機会でもなければゆっくり静養することなどない。本を読んだり考え事をしたりする時間が欲しかったのでちょうどよかった。

 

といっても、実際横になっていると本を読むのも大儀に感じ、ツイッターだの動画だのくだらぬ暇つぶしに興じている。

 

だが昨日は『イーリアス』と、ドーキンスのSelfish Geneを読んだ。

 

哲学書しか読んでいないと、専門に凝り固まって馬鹿になってしまいそうな焦りを覚える。

 

後者は最近文学も他の分野の本も読んでいないことに気がついて、休暇中に本屋で買ったものだ。

 

ドーキンスは自然科学の畑を超えて名が知られているし、私の指導教員が事あるごとに勧めてくるのでもっと早く読んでいてもおかしくはなかった。

 

僕は、自然の理を物質に即して説明するやりかたがあまり好きではない。

 

遺伝子にプログラミングされているから、という単純な根拠で利己主義を人間の本性だと決めつけたり、挙句の果てには(通俗的な意味での)社会ダーウィニズムを正当化するような議論—大抵低レベルなものだが—は、僕は納得できない。

 

現に人間の間には利他的行為が見られるわけだし、それを種全体の存続を達成するためとして説明しきるのはいささか無理がある。

 

僕はまだ通読したわけではないが、読んだ限りドーキンスは利他的行為も種の存続のために必要とされるものであり、遺伝の最小単位である遺伝子は本来利己的である、という路線を貫いているように見えた。

 

まだ前半部をざっくりとしか読んでいないので、間違っている可能性がなきにしもあらずだが、まあこんなところだ。

 

今まで我々が掲げてきた道徳観が一気に崩壊するような本である。出版当初、倫理学畑から相当な反発を受けたことは想像に難くない。

 

本に書かれている仮説は突拍子もないものもあるが、生物の生殖や遺伝を遺伝子の存続という観点から全て説明しようとするもので、僕も頷かされるところがあった。

 

 

 

しかし、そうなると我々はいかにして倫理を持てるのだろうか。種の保存のためではなければ、いかにして利他的になれるのだろうか。

 

無理はできないので一旦筆を置くが、この話題は僕が最近考えている重大なテーマなので、近々また取り上げて続きを書こうと思う。

 

 

 

春と海

春休みが始まってから、目が回るほど忙しい毎日が続いていた。

 

2月の前半は院試の勉強で毎日図書館に篭っていたし、院試が終わってからは大学で任されている謝恩会だの卒業パーティーだのの幹事で、日々カフェに篭ってパソコンを開いていた。

本当はゆっくり本を読みたいし、院で始まる研究も始めなければならない。

それから一人で海にも行きたい。

ぼくは休暇が来るたび、一人でよく江ノ島に行くのだ。

 

特に何をするでもなく、一人で波打ち際に腰を下ろしてぼーっとしている時間が好きだ。

急行で藤沢まで出て、そこから江ノ電に乗って江ノ島海岸で降りる。

砂浜を一人でぶらぶら歩き、気分次第で江ノ島の岩場まで行くこともある

滅多にそこまでは行かないけれども、由比ヶ浜夏目漱石西田幾多郎のゆかりの地だ。

「海とはまことに不思議なものだ・・・」

広漠とした太平洋を眺めて哲人がそう呟いたことを、ぼくはある先生の講義で何度も聞かされた。

「海とはまことに不思議なものだ・・・」

ぼくも打ち寄せる潮のしぶきを浴びつつ、波打ち際を歩きながら、目を細めて水平線を眺める。

 

そうしてぼくは、真っ赤な夕日が江ノ島のむこうに沈み、あたりが寒くなるまで砂浜に止まったのち、ようやっと駅に向けて歩きだす。

ただ何をするでもなく、くたびれるまで潮風を浴びて歩くのが、やつれた精神にはとても効くのだ。

最近カフェで作業している時、頭の片隅に江ノ島の情景が浮かぶので、ぼくはどうやら参っているのかもしれない。

 

江ノ島は家から遠いので、かわりに先週は横浜に行ってきた。

特に何をしたわけでもないけれども、海沿いをぶらつくだけですっかり満たされた気分になって、ぼくは満足した。

異国風の街並みや港町の情景は、江ノ島とは趣を異にするけれども、ぼくはやはり好きだ。

横浜も江ノ島も、誰かと行くものだと思っていた。

しかし、どちらも一人で十分楽しめるものだとわかった。

 

また海に行きたい。湘南の海が好きだ。

死んだら僕の灰は、そこに撒いてほしい。

 

 

 

今日はとても気分が沈んでしまい、いろいろと昔のことを思い出してしまった。

作業も読書も手につかず、しょうがないので文章を書くことにした。

僕のもとから去っていった人たちや、去って行った時代のことがいやというほど鮮明に思い出されて、帰ってからしばらく布団を被ってうずくまっていた。

海の話はほんの余談のつもりだったけれども、つい長々と書いてしまった。

 

ほんとうに書きたかったことは、また機会があれば書こう。

 

空気はすっかり春めいてきた。もう冬が終わろうとしている。

美しい自殺

ゲーテは恋多き詩人だった。

 

『若きウェルテルの悩み』が、彼自身の体験をもとに書かれたことは、あまりにも有名だ。

 

彼はヴェッツラーで法官の見習いをしていたころ、舞踏会でシャルロッテ=ブッフと出会い、一目で恋に落ちる。

 

しかし彼女は、その時既に、ゲーテの友人ケストナーと婚約していた。

 

ケストナーゲーテの想いを理解し、三人でたびたび出かけるなど、努めて紳士的に振る舞った。

 

ゲーテの情熱はその間も鎮まることがなく、シャルロッテもまたゲーテの想いにつき動かされ、次第に心を乱していく。

 

ついには叶わぬ想いに耐えかね、ゲーテは黙ってヴェッツラーを去ることになる。

 

そのあと、シャルロッテケストナーは正式に結婚した。

 

 

 

ゲーテは、彼女の結婚の日が近づくと、激しく苦悶した。

 

毎晩胸に短剣を突き立て、自殺を考えるようになる。

 

そのころゲーテのもとに、人妻への失恋がもとで、ある友人がピストル自殺したという報が届く。

 

その話に着想を得て書き上げたのが、『若きウェルテルの悩み』である。

 

 

 

失意の底にあった彼にとって、書くことが自殺以外の唯一の救済だったのだろう。

 

私には、彼がなぜシャルロッテの触れたピストルでウェルテルを自殺させたのかがわかる。

 

ウェルテルは間接的に、シャルロッテに殺された。いや、殺させたのだ。

 

愛する人に殺されたいという願いゆえに。

 

 

 

前に書いた通り、人は愛するもののうちに永遠を見出す。

 

それに憧れて、人は愛する対象と一つになりたいと願い、対象と自分とが永遠に存続することを望む。

 

 

けれども、人は時間の中で生きていて、有限な存在である。

 

結婚と生殖は、時間的な存在としての人間が、可能な限り永遠に近づくための手段であろう。

 

これはたしか、プロティノスの言葉だった。

 

 

 

しかし、時間的な永遠性は、時間を超越した真の永遠性には、遠く及ばない。

 

 燦然と輝く永遠な瞬間を、時間軸の中で無理やり捕まえようとすると、いとも簡単に壊れてしまう。

 

幸せな時間には終わりがあり、人と人の関係にも終わりがある。

 

いつまでも近しい人のそばにいたいと願っても、気づけばいなくなっている。

 

そして自分の目を黒い闇が覆い、永遠に光が失われる日が来るだろう。

 

しかし死の瞬間、記憶のうちにある過去は消滅し、期待としてある未来も消滅する。

 

永遠の「いま」にとどまったまま、いっさいの時間の流れが停止する。

 

その瞬間が愛する人の手で訪れたら・・・

 

それがあらゆる道を閉ざされた、若きゲーテの希望だったのではないだろうか。

永遠の夏

夏の終わりを感じられないまま、冬が来てしまった。

 

この家に越して来てから、もう三ヶ月が経った。

 

あたりが寒くなるのと同じくらい早く、ぼくの青春そのものだった四ツ谷の家の記憶は、だんだんと遠ざかっていく。

 

先月むかし住んでいた家の近くに用事があったので、すこし気になって寄り道して見たら、ぼくの部屋にはもう人が住んでいるようだった。

 

まだそんなに時間が経っていないから、家へと続く路地を歩いている時は、特に懐かしさも感慨もなかった。

 

買い物袋を提げてあの家に帰っていた時と同じ、何度も見慣れた日常の風景にしか見えなかったからだ。

 

野良猫の家族が住んでいた建物の隙間も、帰りがけに腰掛けて煙草を吸ったポールもそのままだった。

 

向かいの家が新しくなっているなど、すこしの変化はあったけれど。

 

でも、他人の傘が無造作に立てかけられたあの部屋の玄関は、すっかりよそよそしい感じがして、もうぼくを受け入れてはくれないようだった。

 

でもそれを見て、少し気持ちの整理がついたような気がした。

 

 

 

そう、昨日四ツ谷の交差点を歩いていたら、見覚えのある人影を見かけた。

 

その人影は緑色のコートを着て、友達と連れ立って歩いていた。

 

遠目で見てピンときたけど、やっぱり見知った人だった。

 

去年の冬のある夜、四ツ谷駅で見送ったあの子が、すぐ目の前で信号を待っている。

 

気まずいような、それでいて近寄りたいような気もしたけど、結局こちらの方が歩くのが早かったので、黙って真横を通り過ぎた。

 

ぼくは今、あの頃欲しがっていたチェスターコートを着ている。

 

向こうが気づいたかどうかは分からない。

 

ちらっと見た横顔は、相変わらず美しかった。

 

 

 

彼女は来年就職するだろうし、ぼくは院に進む。

 

この広い東京のどこかに散って、またすれ違うことがあっても、お互い気づかないかもしれない。

 

一言も交わさなかったけど、ぼくは彼女の側を通り過ぎる数秒間、あの家で過ごした一年分の記憶を思い出した。

 

遠ざかりながら、嬉しさと、懐かしさと、寂しさが静かにこみ上げてきた。

 

 

 

人は愛する時、相手の中に永遠なものを見る。

 

これは人を愛したこともない神父の教授が大学の講義で言っていたことだけれども、ファウスト博士が叫んだ「時間よ止まれ、そなたはあまりに美しい」という台詞は、そういうことを言おうとしていたんじゃないか。

 

ぼくはたしかに、彼女とあの家で過ごした時間の中で、永遠なものに触れたような気がする。

 

夏の盛りに、二人で新宿御苑の芝生に寝転んで、西瓜とビールを買って帰ったあの日の記憶は、「まだないもの」「今目の前にあるもの」「もはやないもの」といった精神の延長とは別のところで、たしかに今も存在しているのだ。

 

きっと今もこの世界のどこかで、ぼくと彼女は手を繋いで、芝生の上で笑いあっていることだろう。

 

そんなことを考えていたら、涙がこみ上げてきた。